文学の散歩道 A



「作詞」と「小説」の小話です。
   
文学の散歩道 1
  
「歌」は「3分間のドラマ」
  
■ C 「小説」の理解。読解。 「論文」 CiNii Articles - 日本の論文をさがす - 国立情報学研究所
■ D 「野菊の墓」(伊藤左千夫)   「古い因習」や、「女性差別」
■ E 「絶唱」(大江賢次)        「差別。偏見」への問題提起と「小説」
■ F 「伊豆の踊子」(川端康成) 1  「差別。偏見」への問題提起
■ G 「伊豆の踊子」(川端康成) 2  「非現実」(桃源郷・理想郷・夢・幻想・逃避行)
■ H 「伊豆の踊子」(川端康成) 3  「カタルシス」。(心の浄化。心の洗濯(洗う)。リフレッシュ。人間回復)
■ I 「30%の幸せ」(内海隆一郎)   「辛い」ことが多いほど、「うれしい」ことに敏感になれる
■ J 「義血侠血(「滝の白糸」」   「規範」対「人情」
■ K 「桑の実」(鈴木三重吉)     「おくみ」の淡い恋
■ L 「二十四の瞳(壺井栄)」     「子供たちの美しい瞳。先生の美しいまなざし」
■ M 「金色夜叉(尾崎紅葉)」    「許す」ことについて





   ■ C 「小説」の理解。読解。   「論文」

     ・「小説」の理解。読解には、上記のように「国語」の勉強がなんといっても必要だと思いますが、次は、
     直接的な勉強になるお話しです。

     「伊豆の踊子。古都。雪国(川端康成)」。 「絶唱(大江賢次)」。 「こころ。坊っちゃん(夏目漱石)」。
     「二十四の瞳(壺井栄)」。 「野菊の墓(伊藤左千夫)」。 「雁(森鴎外)」。
     「にごりえ・たけくらべ(樋口一葉)」。 「婦(おんな)系図(泉 鏡花)」。 「浮雲(二葉亭四迷)」。
     「桑の実(鈴木三重吉)」。 「金色夜叉(尾崎紅葉)」。 「不如帰(ほととぎす)(徳冨蘆花)」・・・。

     自分の「好み」の小説はこうゆうところなのですが、「小説」の理解。読解だからといっても、「あらすじ」
     を読んでも、ほとんど意味はないと思います。

     「あらすじ」は、ネット検索しますと、各「小説」の読書好きの方が、「あらすじ」などを書かれていますので
     だいたい、内容の筋はわかります。 しかし、「理解。読解」とは、別ものなので、おすすめなのは「論文」
     です。

     ・「論文」は、「大学図書館」。「国の機関」関係にあります。
     これを「ネット」で、公開しているものは読むことができます。


    ◆ CiNii Articles - 日本の論文をさがす - 国立情報学研究所   「論文・検索サイト」

     例えば、「川端康成 伊豆の踊子」と、入力して検索しますと、一覧が出てきます。
     「非公開」もありますので、全てを読むことができるわけではなく、「公開」されているものだけですので
     注意してください。

     ここで、私の好きな小説関係の「論文」を検索して、「ダウンロード」して読んでいます。
     「論文」ですから、大変、内容も濃く、高度な分析・解釈がされていますので、非常に勉強になります。

     例えば、「伊豆の踊子」にしても、「趣味・娯楽」としての「読書」では、「あらすじ」中心の読みが多い
     ものでしょう。 どこで、だれが、どんな風に出会い関係し、どんな出来事があり、そして、どうなったのか。
     という具合ですよね。

     しかし、それだけでは、「娯楽」として終わってしまいます。 やはり、「読む側」ではなく、「書く側」の立場
     になったら・・・という観点で読まないと、意味がありません。 「小説」を書くわけではないのですが、
     「作詞(歌詞)」は、「ミニ小説版」だと思いますので、やはり、「書く立場」としての勉強。読みが必要か
     と思います。 そうしますと、「論文」の解釈は、大変、勉強になります。


    ◆ 「伊豆の踊子」にしても、単に「純愛物語」としての「娯楽」としてだけの読みだけに終わらず、「なぜ」。
     「どうして」という「深い読み」。「筆者のこの物語に込めた主題・メッセージ」を読みとることが重要なの
     は、国語の読解の最重要ポイントでもありますように。

     だからこそ、「現代文」の最終問題は、「主題」を含む要約問題なわけです。。。
     (「筆者のこの物語に込めた主題・メッセージ」)

     となりますと、「伊豆の踊子」も、いろいろな「主題・メッセージ」が隠されていたことが読み取れます。
     「伊豆の踊子」は、「純愛物語」というラブストーリーです。

     「あらすじ」としての「表面的」な表現としては、「心を病んだ青年」が、いわば、気分転換のために、
     「伊豆」の旅に出かけます。 今でいう、観光旅行をして「リフレッシュ」しようとしたわけです。

     そして、「伊豆」につき、旅をし始めた頃、旅芸人の一座に出会いました。
     その中の一人が、「踊子」です。

     「青年」は、この「踊子」に心ひかれます。 
     そして、とうとう、男性を通じて、座長に「旅の同行を申し出ます」。
     OKがでましたので、いっしょに、伊豆を旅することになるわけです。

     OKがでてよかったですよね。 OKもでず、「踊子」を「青年」が追いかけたら、今、流行りの「ストーカー」
     小説になってしまいます。。。

     話しを戻しますが・・・。  そして、その旅の途中である
     人間ドラマ。人間模様が、「踊子」を中心に、この「青年」の「心を解きほぐし癒す」ことになるわけです。

     いわば、「人間回復」のドラマです。
     では、どんな場面で、どのように「回復」していくのか。 「著者の主題・メッセージ」であるそれを、
     具体的に探究し読み解くのが、「論文」ということです。

     ですので、「論文」を読むと、「小説」の「物語」という「表面・オブラート」に包まれた「あらすじ」の中に
     ある、「深層」の「著者の主題・メッセージ」がわかってきます。

     もちろん、「論文」は、「著者・本人」ではありませんから、著者の本当のことはわかりません。
     しかし、「著者」は「読者」に、「メッセージ」を伝えたいがために、「物語(小説)」という表現で書いて
     いるわけですから、「推測・憶測」できなければ伝わりませんので、ほぼ「論文」で理解できるはずです。

     ということで、「論文」は、「小説」の読解には、直接的な参考になります。
     私も、そうですね。 「論文」だけで、「各・小説」を「A4の用紙」でプリントアウトしてファイルしていの
     ですが、「カラーボックス」の棚に、3段全部、埋まるくらいあり、「印刷・ファイル」しています。
     私にとっては、この「論文」は「宝の山」のようなものです。





   ■ D 「野菊の墓」(伊藤左千夫)  「古い因習」や「女性差別」

     「野菊の墓(伊藤左千夫)」は、同じく「村社会」の「古い因習」や、「女性差別」があります。
     「政夫」と「民子」は、「いとこ」同士ですが、「政夫」の母が寝込みがちのため、「看病」やら
     「家事手伝い」のため、「政夫」の家に来ています。

     「政夫」と「民子」は、次第に「心ひかれる」仲になっていきます。
     しかし、本人たちとは別に、「周囲」の人間や、村人たちという「世間」は、「卑猥(ひわいな)目」で見る
     のです。 特に、「民子」は「政夫」より、「2つ年上」です。

     これをいわば、「嫉妬心」のためであるにも関わらず、「女が年上」の恋は「恥」のような「言いがかり」
     「口実」として、「二人の仲」を引き裂こう・・・と、周りがするのです。

     「民子」も悩みます。 「政夫」といっしょになりたいけれど、周囲の「言いがかり」同然の誹謗中傷に、
     責められます。

     とうとう、「民子」は、半強制的に、また、断れない状況に追い込まれで、「別の家に嫁がされます」。
     「民子」は、ついに、精神的に参ってしまい「寝込んでしまいます」。

     その原因は、「政夫」と結ばれなかった「民子・自身」の「悲しさ」ということだけでなく、むしろ「政夫」
     に対し、「別の夫」の「妻」になってしまったことへの、「申し訳なさ」からです。

     「民子」は、ついに死んでしまいます。
     しかし、その後、「民子」の手に握られていた「布切れ」を開いてみると、「政夫の写真」と「政夫」が
     いつか民子に思いを綴り渡した「手紙」でした。
     (ちなみに、映画では、政夫に例えられる「竜胆(りんどう)の花」を手にしていたかもしれません・・・?)

     そこが、「クライマックス」です。
     周囲の人間たちは、死ぬほど「後悔」します。 そして、「政夫」は許します。

     もちろん、「政夫」も気が違ってしまいそうな心境です。 「恨み辛み」は、爆発寸前でしょう。
     しかし、「政夫」は、これ以上の「死人」を出したくなかったのです・・・。
     (政夫の母が、後悔。 自責の念に、自殺しかねない状況だったため)

     最後に、「民子」の墓に皆で、懺悔同然の状況で、墓前にたどり着きます。
     「政夫」も、その墓前に崩れるように、涙します。

     「民子」を「死」においやった、周囲の人達への押さえきれないほどの「恨みと憎しみ」。 しかし、
     これ以上の「死人(母の自殺)」を出しかねなく、また、周囲の人達の「後悔」する状況から、
     「死の連鎖」を引き起こしかねない状況の中で、「許さざるを得ない」ジレンマに苦悩しやりきれない
     思いに涙する「政夫」。

     しかし、ふと、我に返り、墓前の周りを見渡せば、そこには、あの「二人の楽しい日々の思い出」の
     一コマであり、道端で摘んで、「二人が愛をささやき合った」ときに咲いていた、
     「民子のような可憐な野菊の花」が咲いていたのでした。。。完


     ・何度、読み返しても、「涙が抑えきれない」ほど悲しすぎる「純愛小説」です。





   ■ E 「絶唱」(大江賢次)  (「差別。偏見」への問題提起と「小説」)

     ・「差別。偏見」への問題提起を含む小説は沢山あります。

     「絶唱(大江賢次)」。 「野菊の墓(伊藤左千夫)」。 「雁(森鴎外)」。
     「にごりえ・たけくらべ(樋口一葉)」。 「婦(おんな)系図(泉 鏡花)」 なども、そうです。


    ◆ 「絶唱(大江賢次)」は、「地主の御曹司」と「山番の娘」の、「身分違い」や「古い因習」のために
     苦悩させられる「純愛小説」です。

     ちなみに、「絶唱」は、現在、「絶版」ですので、手に入りませんので、「読んでみたい方」は、
     「長野県立図書館」にありますので、借りて読んでください。 私も借りて読みました。
     「絶唱」も大変感動する、おすすめの小説です。 

     また、「続・絶唱」(小雪)もありますので、「2冊」いっしょにどうぞ。。。





   ■ F 「伊豆の踊子」(川端康成) 1  「差別。偏見」への問題提起

     ・せっかくですので、「伊豆の踊子」について、少し書いてみます。
     「伊豆の踊子」は、超有名な小説ですので、だれでも大なり小なり、なんとなくでも知っているでしょう。

     先にも記しました通り、一言でいうと、「青年」と「踊子」との「純愛物語」です。
     また、一歩、深く読みますと、「青年」の「人間回復」ドラマでもありました。

     その他には、どんな「副次的な主題」があるのでしょうか。
     それは、「差別。偏見」への問題提起です。

     「えっ?」と思われた方も多いでしょうが、意識して読むと分かります。
     「踊子」と「青年」の恋は、叶いませんでした。。。 「悲恋の物語」です。 なぜでしょうか?

     ・「青年」は、なぜ、「伊豆の旅」を途中でやめて、東京に帰ってしまったのでしょうか?
     ・「母」のような。また、「母」代りの「女座長」は、なぜ、「踊子」と「青年」との「活動写真」の同行を
     許さなかったのでしょうか?

     それは、結局は、この「差別。偏見」という、当時の時代背景と関係するわけです。
     当時としては、「旅芸人」は卑しい「下層階級」でした。 それに対し、「青年」は、「学生さん」です。
     当時の「学生さん」は超エリート、ほんの一部の人で、いわば、世の中では「上層階級」の人たちです。

     この「実質的」な「身分階層」の差は、乗り越えることが現実的には「不可能」な時代なわけです。
     それを、母のような「女座長」は、よく知っていました。

     だからこそ、「実らぬ恋」。「悲恋」になることは、目に見えて母のような「女座長」はわかっていたので
     暗に、「青年」と「踊子」を、「深い仲」にならないよう。 また、「踊子」の心が傷つかないように。という
     配慮から、「踊子」が「青年」と「活動写真」にいっしょにいきたいと、座長に頼んでも、許しがおりなかっ
     たわけです。

     一見すると、「冷たい母」のように見える場面ではありますが、まさに、「踊子」を気づかう「母心」だった
     んですね。。。 この「冷たい母」のように見える座長の「母心」は、いろいろ出てきます。

     「踊子」が、「青年」の宿に遊びに出かけていると、「女座長」の目がひかっているような場面があります。
     「踊子」はしぶしぶ、「叱られるから・・・」と、途中で帰ってしまいます。

     また、「踊子」が、「青年」にお茶を出す場面では、「踊子」が「お茶」をこぼしてしまいます。
     なぜなら、「踊子」は「青年」を強く意識してしまっていたので、緊張のあまりにこぼしてしまったわけです。

     それを見ていた「女座長」は、いわば、あきれたように小言まじりの言動をします。
     それは、「青年」に対する、「踊子」の「恋心の芽ばえ」を察し、今の内に摘んでしまおうという、これも
     「表向き」は、「冷たい母役」を演じながらも、内面では、「実らぬ恋の悲恋」に、あとあと、「踊子」が傷
     つかないようにとの配慮。気づかいである「母心・親心」だったわけです。

     それから、話しは戻りますが、
     ・「青年」は、なぜ、「伊豆の旅」を途中でやめて、東京に帰ってしまったのでしょうか? ですが、

     これも、最終的には、間接的に遠回しに、「女座長」から「感じとった。気付かされた」のでしょう。
     「青年」も、半分諦め気味の気持ちになってしまったのか、「表向き」には、「旅費が、底を突いた」よう
     なことをいっていますが、「内心」は「身分の違い」という「壁」があることに気づかされて、当時としては
     乗り越えられないものだということを「悟り」、「青年」が気を利かせて、先に「身を引いた」と思われます。

     だからでしょうか。 「青年」は、帰る「船の中」で涙を流します・・・。
     その「涙」は、いろいろな意味が含まれていたことでしょう。
     その一つに、「踊子」との「別れ」の悲しさ。 いや、「別れざるを得なかった」、「身分差別」の現実的
     にはまだ残る、この時代への「悔しさ」をも含んでいたのではないでしょうか。


    ◆ 「差別。偏見」の問題提起された場面は、大変、多く出てきます。

     まずは、冒頭、「峠の茶屋」での、ばあさんの言動。
     また、「宿屋」での宿屋の言動。 村境の「立て看板」の文言。

     それから、「青年」に、杖かわりのためにと、「踊子」が道端の篠竹を盗んでくるシーンで、「兄」が叱る
     のも、単に「盗んだ」からだけではなく、実は、「旅芸人」という人達に対する、「世間の目」。「差別的
     な目」もあることを、暗に描いているわけです。 だから、気をつけるように「家族・兄弟心」で「兄」は、
     妹の「踊子」を叱ったわけです。

     このように深く読んでみますと、単に「純愛物語」。「悲恋物語」としての娯楽観だけでなく、「差別・
     偏見」への問題提起が、「副次的な主題」として、メッセージが投げかけられているわけです。

     ・話しはつきませんのでこの辺までとしますが、「読め」なければ、「書け」ません。
     「小説」が「読めなければ」、「ミニ小説版」のような「作詞(歌詞)」も「書けない」と思いますので、
     このようなようような勉強の仕方も、あるのではないでしょうか。 
     自分の場合ですが・・・参考になれば。ということで・・・





   ■ G 「伊豆の踊子」(川端康成) 2  「非現実」(桃源郷・理想郷・夢・幻想・逃避行)

    ◆ 「桃源郷・理想郷・夢」。(「現実」→「非現実(桃源郷・理想郷・夢・幻想・逃避行)」→「現実」)

     ・「伊豆の踊子」の話しに戻りますが、「伊豆の踊子」の構造についての一口メモです。
     これは、「川端康成」の小説に多い構造なのですが、「現実」→「非現実」→「現実」。
     という構成が見られます。

     どういうことかといいますと、「非現実」世界を楽しむ。といいましょうか、「現実」ではありえない世界が
     「物語」として始まるのです。

     要するに、「伊豆の踊子」の場合ですと、「青年」と「踊子」の旅は、「夢・幻想・逃避行」だったのです。
     すなわち、「夢のような」世界だったのか、また、「あこがれ」の世界だったのか・・・。というような感じです。

     具体的には、「青年」が、「東京」から「伊豆」に着き、「峠の茶屋」で休み「踊子」と再会します。
     (一度、「青年」は、「踊子」を見かけている。そして、「踊子」たちの跡を追いかている矢先に、
     茶屋で思いがけず、再会します)

       @ その後、【トンネル(★境界)】に入ります。 先に茶屋をたった「踊子」一行を追いかけます。
         この【トンネル(★境界)】までが、「現実世界」。 そして、

       A 【トンネル(★境界)】を抜けて、「踊子に追いつく」ところから「夢」の世界である、
         「非現実」世界が始まります。

       B そして、数日間の「一連の同行旅」が済み、「踊子」との「別れ」のシーンが来ます。
         波止場から、青年は【船(★境界)】に乗り、「港」を去っていき、東京へ向かいます。

     【船(★境界)】が、「非現実・夢」の世界の「終わり」です。
     その後、「東京」の「現実世界」へ帰っていきまです。


     まとめますと、

       @ 「現実世界」(東京〜トンネルの入り口まで)→

       A 【トンネル(★境界)】→「非・現実世界。夢の世界」(踊子同伴の伊豆の旅)→

       B 【船(★境界)】→「現実世界」(帰郷・東京)へ戻る。


     この、【★境界】を境に、

       @「現実」→★→A「幻想(非現実)」→★→B「現実」。 のように切り替わります。

     いわば、「現実世界」の嫌な「俗世間(現実)」を逃れる、「逃避行(非現実)」の旅のようなものです。


    ◆ このような「構造」は、「川端康成」の小説に多い構造です。 例えば
     「古都」も、「鈴虫」を飼っている「古丹波の壺」の世界観で例えられていますし、
     「川端康成」の代表作の「雪国」は、「伊豆の踊子」とまさに同じです。

     ・「国境」の長い「トンネル」を抜けると「雪国」であった・・・。の出だしの一節。

     この【トンネル(★境界)】が、「境界」の入口となり、「東京」という「現実世界」から、
     「雪国」という「非・現実世界」に入ります。

     そして、「雪国」での一連の日々を過ごし、また、同じこの【トンネル(★境界)】を通り、「東京」という
     「現実世界」に戻ります。


     ・その他の作品では、「眠れる美女」もそうです。
     「美しく眠る、若い娘たち」の「部屋」に入り、【「カーテン」の仕切りを★境界】として、「非・現実世界」の
     「幻想的」な世界が始まるのです。。。

     このように、構造が読めると、楽しさも倍増しますよね。。。 





   ■ H 「伊豆の踊子」(川端康成) 3 「カタルシス」。(心の浄化。心の洗濯(洗う)。リフレッシュ。人間回復)

    ◆ 「カタルシス」。(心の浄化。心の洗濯(洗う)。リフレッシュ。人間回復)

     ・「カタルシス」という言葉を聞いたことはありますか? 
     「国語。現代文」で知っている方も多いのではないでしょうか。

     「小説」で「一番、大切なこと」を一言でいうとしたら? 私は、この「カタルシス」ではないか。
     と思います。 もちろん、他にも大切なことは沢山あるわけなんですが、それほどに、この「カタルシス」
     が重要なことだと思います。

     ・「カタルシス」とは、簡単にいいますと、「心を洗う」という効果作用です。 要するに、

       @ 心が「荒(すさ)ん」だり、 「いじけ」たり、 「不満いっぱい」だったり、 「落ち込ん」だり、 とにかく
         「心」が「マイナス」の状態にある場合に、それを、なんらかの

       A 「きっかけ・要因」により、

       B 「プラス」方向に、「回復」することをいいます。

     @心が「マイナス」の状態→A「きっかけ・要因」→B心が「プラス」へ回復すること ⇒ 「カタルシス」


    ◆ 「伊豆の踊子」の話しに戻りますが、「伊豆の踊子」の小説でもそうです。

     「青年」は、「俗世間」の中で、「心」が「病み(−)」かけていたのでしょう。
     だから、「伊豆」の観光旅行でもして、「リフレッシュ(カタルシス)」しようとしたのでしょう。

     しかし、「伊豆の踊子」では、単なる「観光旅行」ではなく、この小説のように、「甘く切ない」物語が
     あったわけです。 そして、

       @ 「青年」の、「荒(すさ)みかけた心(−)」が、

       A 「踊子たち一行(きっかけ・要因)」により、「心が洗われ」て

       B 「元気・素直(+)」な心の状態に「回復(取戻)」して、東京に帰っていったわけです。

     もちろん、「踊子」との「別れ」は、「辛い」ものでした・・・。 
     しかし、それ以上に、「踊子たち」から多くの「よい影響」を「得た」はずです。
     そして、「読者」も、「青年」と共感を得、「リフレッシュ(カタルシス)」されるわけです。

     このように「小説」では、「カタルシス」効果が起こるような作り方。作品が一番、重要なことだと思い
     ます。


    ◆ 「具体的」な場面でいいますと、「冒頭」の場面の「峠の茶屋」で、後から入ってきた「青年」のため
     に「踊子」は、自分の座布団をはずして、「青年」に敷いてやっています。

     また、「峠」の下りでは、「青年」のために、「湧水」を「踊子」たちが探してやります。そして、「青年」を
     その場所に案内するわけですが、「踊子」たちは、「青年」が最初に飲むまで、待っています。
     「自分たち」が「湧水」を探したわけですから、とっとと「湧水」を口にしても良さそうなんですが、そうしま
     せん。

     それから、「青年」のためにと、「踊子」が「杖」代わりに道沿いの「篠竹」を盗んでくるシーンもそうです。
     とにかく、意識すれば、そのような A「心配り。気づかい(要因)」は、たくさんあります。
     この「心配り。気づかい」は、「青年」の心を、綺麗に流してくれたことでしょう。

     また、最大の影響 A「きっかけ・要因」は、「踊子」の「浴場」シーンでしょう。 
     もちろん、この場面は、最も強烈で「インパクト」ある見せ場であることは、いうまでもありません。

     ・「若桐のように足のよく伸びた、白い裸身」を眺めて、私は「清水を感じ・・・」というくだりがあります。
     その他、いくつか、列記すれば、

     ・「冬でも泳げるんですか」と私(青年)が言うと、「踊子は赤く」なって、「非常に真面目な顔」をしながら
     「軽くうなずいた」

     ・踊子が茶を運んで来た。 私(青年)の前に座ると、「真紅(まっか)」になりながら、「手をぶるぶるふるわ
     せる」ので、茶をこぼしてしまった。 ・・・   私(青年)は、峠の婆さんに煽(あお)り立てられた空想が
     「ぽきんと折れるのを感じた」。

     ・「踊子が、真っ赤になり」 ・・・ 「両の掌で顔を抑えてしまった」。 ・・・ 彼女は・・・「綺麗なお辞儀」
     をして、立ったままの「私をまごつかせた」。

     ・「いい人ね」。「それはそう」。「ほんとうにいい人ね、いい人はいいね」・・・。
     の踊子たちの「ひそひそ話」に、私(青年)は、「素直に感じる」ことができた。・・・

     などなど、とにかく、たくさんの「踊子たち」の言動や、また、「踊子自身」の身振り素振りに「青年」は
     「心洗われた」ことでしょう。

     このように、「タカルシス」を引き起こす、「要因」が、心身に関わらず、いろいろありました。
     だからこそ、その影響を受け、「青年」は「リフレッシュ」され、いわば、「人間回復」をしたわけです。

     ですので、「小説」の「価値・意味」は、それを共感した「読書」にも、「青年」と同じく、大なり小なりの
     影響を及ぼすことになるので、この小説は、読み継がれるのでしょう。


    ◆ 「作詞・歌詞」も同じではないでしょうか。

     ・もちろん、「作詞」の本には、この「カタルシス」の必要性は、当然、書かれています。
     しかし、「作詞」の本には、いろいろ「作詞」について書かれているので、この部分を、「素通り」してしま
     っている。意識できていない方も多いかと思います。

     ですので、「小説」と同じように、「作詞」も、もう一度、この「カタルシス」の必要性。重要性を再認識
     してみてください。





   ■ I 「30%の幸せ」(内海隆一郎)      (「辛い」ことが多いほど、「うれしい」ことに敏感になれる)

    ◆ 「30%の幸せ」 短編小説

     ・自分は、音楽(歌)にしろ、小説にしろ、「ほのぼの」系の作品が好きなのですが、おすすめの短編集を
     ご紹介いたします。

        あとがきの文面です。

        ・私の書く「短編小説」は、「ささやかな幸せ」に出会う物語が多いようだ。
        これを、私自身は「30%のハッピーエンド」と名付けている。

        ところが人生では、そんな「わずかな幸せ」にすら、なかなか出会えないことだってある。
        しかし、それも「考えようだ」。

        人は、「つらい」ことが多いほど、「うれしい」ことには「敏感」になれる。
        いっぺんに「幸せ」になることができなくても、ほんの少しずつなら何度も「幸せ」になっていられる。

        誰もが、ずっと昔から、そのように自らを励まして生きてきたのだ。



     ・「30%の幸せ」短編小説は、日本版「オー・ヘンリー」(青空文庫)とでもいった感じの短編集です。

     「幸せ」とは、一見すると、「幸せ」という「物」があると思ってしまいます。
     しかし、「幸せ」とは、「幸福感」のこと。

     「手に入れた」ときは、「幸福」を感じますが、それも「束の間」。 すぐ「普通」に感じてしまいます。
     しかし、「小説」とは、なんど読み返しても、その感動が薄れることなく、そのたびによみがえります。

     この短編集も、ささやかな「幸せ」に出会えるので、私のおすすめの本です。





   ■ J 「義血侠血(「滝の白糸」の原作)」(泉 鏡花)    「規範」対「人情」

    ◆ 「泉 鏡花」の作品

     ・「泉 鏡花」の作品は、数が多く、特に、「有名」なのは、
     「義血侠血(滝の白糸)」(外科室・海城発電 他五篇の中に収録)
     「婦系図(湯島の白梅)」「歌行灯」「高野聖」。「夜叉ヶ池」。「天守物語」などです。

     ・数ある作品の中から、「義血侠血(滝の白糸)」について書いてみます。


    ◆ 「義血侠血(滝の白糸)」の「あらすじ」

     ・ある日、馭者をしていた「村越欣弥(きんや)」に、客として乗った水芸人である「水島友(白糸)」という
     美しい女性に出会います。 その後、会社を首になった「村越」と、また「再会」します。

     そのとき、「白糸」が、これからどうする?と問うと、「村越」は「法律」の修業をしたいが「金」がないという。
     「白糸」は、「村越」の話しを聞いて、「学費の援助」を申し出、「村越」はそれを受け入れ東京へ
     学問の修業にのぼります。

     ・数年の時が流れます。 あるとき「白糸」は、「学費の援助金」に難儀し、100円を借金して工面しま
     すが、出刃の強盗に奪われてしまいます。

     途方にくれた「白糸」は、強盗の落としていった出刃で、金のありそうな家に強盗に入り、その家の夫婦を
     殺してしまいます。

     ・場面は変わり、「白糸」はその件の容疑で捕まっていました。 そして、その裁判には、偶然あの「村越」
     が、学業を終えて、「検事代理」として参加していました。

     「白糸」は当初、認否していましたが、「立派」になった「村越」の姿に感銘し、ついに「自白」します。
     「村越」は、「大恩人」である「白糸」を、「私情」を挟まず、「検事」として「立派」に「罪は罪」として、
     法にのっとって断罪しました。 その結果、「白糸」は「死刑宣告」の判決がくだされます。

     しかし、その夕方、「村越」は「自殺」してしまうのでした・・・。


    ◆ 「義血侠血(滝の白糸)」について

     ・この作品のポイントは、「規範」と「人情」とのジレンマです。
     「大恩人(白糸)」は、人を殺していますから「殺人犯」です。 だから、「検事(村越)」としての公の立場
     としては、その罪を断罪することこそ、「立派」な検事です。

     「白糸」は、「村越」が「立派」な検事になることを夢見て、「援助」をしました。
     だから、「大恩人」に対する「恩返し」は、「立派」な検事の姿を見せることです。
     すなわち、公正な検事の処断する姿を見せることです。

     しかし、そうすれば、「殺人犯」である「白糸」は、犯行理由を加味しても「死刑」になってしまいます。
     また、もう一方の考えとしては、検事である「自分(村越)」が「私情」を挟み、手心を加えることもできなく
     はありません。 要するに、わざと「自白追求」に追い込まないで、うまく、「白糸」の罪を見逃すことも
     可能だったかもしれません。

     ですが、それでは「立派」な検事でありませんし、「白糸」の「自分」への「期待してくれた姿」に反します。
     そんな「ジレンマ」の中で、結果的に、「大恩人」を「死罪」に追い込んでしまった「村越」は、「人情」と
     しては、当然、やり切れない思いだったことでしょう。

     だからこそ、「村越」は、「仕方なし」の状況での「強盗殺人」とはいえ、そこまでして、「自分」のために
     「学費」を工面してくれていたこともあり、大恩人の「白糸」に対し、「検事」としては「立派」な行動を
     とったけれども、「命を救って」あげられなかったことに対し、「自殺」して詫びたわけです。

     なんとも、やり切れない物語ですね。
     「罪」を犯すことは、「悪い」ことです。 しかし、それが「本当の悪人」とは限りません。
     今回の事件のように、「白糸」は、「人のため(村越)」に、罪を犯しました。 「白糸」自身の私利私欲の
     ためではありません。

     理由はともあれ、「部分的」にみれば、「強盗殺人」したことは「罪」です。
     しかし、「全体的」な経過で見れば、「村越」に対しては「人助け」をしたわけです。
     本当に、辛く悲しい話しです。


    ◆ こういう「筋書」はよくあるわけですが、例えば、樋口一葉「大つもごり」もそうです。
     せっかくですので、「あらすじ」です。

        「にごりえ・現代語訳」・樋口一葉。   (にごりえ・他)・全7作品 [大つもごり]

     ・「金持ちの家(山村家)」に奉公する、娘「お峰」は、養父同然に世話になった「叔父」の病気難儀の
     ため、「金の工面(二円)」を頼まれます。

     「お峰」は、お上さんに「前借り」を頼みますが、反故されてしまいます。
     それに怒った「お峰」は、こっそり、「山村家」の「お金(二円分)」を、引き出しから盗んでしまいます。

     「大つもごり(大晦日)」の日、決算のため、家中のお金を勘定することになりました。
     引き出しの金を、「二円分」盗んだので、「二円分」不足していることはわかります。

     また、お上さんに「二円」、前借りを申し入れしていたこともあり、自分が犯人だと疑われるのは必至です。
     万事休す「お峰」・・・

     ところが、なぜか「お峰」は、犯人にはなりませんでした。
     実は、偶然にも、山村家の「ドラ息子」が、引き出しのお金を「丸ごと」持ち出し、書置きをしていった
     のです。 なので、「お峰」が「二円」引き抜いたことはわからなくなってしまったわけです。


     ・ということで、最後は、「悲劇」ではなく、「喜劇」のような「オチ」で終わっているところが、おもしろいところ
     ですね。。。





   ■ K 「桑の実」(鈴木三重吉)    (「おくみ」の淡い恋)

    ◆ 「桑の実」の作品について

     ・「あらすじ」としては、「おくみ」という「娘(若い女性)」が女主人公で、ある「妻と別れた主人の家」
     (青木さん)に、「お手伝いさん」として一時期、働く間のお話しです。

     全体的には、特別な展開があるわけではなく、その家でのごくありふれた日常生活の場面です。
     しかし、「伊豆の踊子」をイメージするような余韻もあります。

     「伊豆の踊子」は、「旅」をしながらその道筋や宿などの場面展開の中にドラマチックな流れがありますが
     「桑の実」は、「日常生活」が舞台です。

     しかし、「踊子」とはタイプは少し違いますが、「おくみ」は「素朴」で「素直」で「清らか」で「優しい」
     「ほのぼの」としたイメージを感じさせる娘です。

     そして、お手伝いさんとしていった家の「主人(青木さん)」は、心の「暗い」部分を持っていました。
     しかし、「おくみ」がお手伝いとして来てから、徐々に、心が「回復」していきます。

     いわば、「伊豆の踊子」と同じく、「踊子」と出会い接するうちに、「学生さん」が「人間回復」するドラマと
     似ています。

     また、この「桑の実」は、作者の分身の感もあります。
     要するに、「主人の青木さん」は「作者」であり、「おくみ」は「理想の女性像」です。

     「作者」は、当時、「神経衰弱(ノイローゼ)」で苦しんでいたそうです。 その作者を「癒してくれる女性」が
     作品の「おくみ」であったのでしょう。

     「作者・鈴木三重吉」は、「私の好きな女」として空想し作り上げたとあります。 まさに「理想の女性」
     です。 また、初期の作品「千鳥」でも、「理想の女性」をイメージする作風になっています。

     それから、「作者・鈴木三重吉」は、後に、小説家から「童話作家」になりますが、童話を書くくらいです
     から、やはり、メルヘンチックなのでしょう。

     「桑の実」の魅力は、「おくみ」そのものです。
     「素直で、素朴で、清楚で、ほのぼの」とした「優しいイメージ・性格」を持つ「娘」だと思います。

     「神経衰弱(ノイローゼ)」で苦しんでいた作者も、「おくみ」のような女性がいてくれたら・・・という願いが
     作品にしたのでしょう。

     そんなわけで、この「桑の実」は、「ほのぼの」系の作品でもあり、「おくみ」と作品の中で出会うだけで
     ささやかな「幸福感」にしたれる作品ですので、私の好きな作品です。





   ■L 「二十四の瞳」(壺井栄)   (「子供たちの美しい瞳。先生の美しいまなざし」)


    ◆ 「二十四の瞳」のあらすじ

     ・昭和の初期、瀬戸内海べりの一寒村(映画では、小豆島)での物語です。
     岬の「分教場」で新入生の担任として、新米の若い女教師(「大石先生」)が赴任します。
     クラスの児童は、「12人」です。

     赴任したばかりのときは、当時めずらしい「自転車」に乗り、「スーツ(洋服)」姿で通勤したため、みんなを
     驚かせました。

     ある日、子供たちと浜辺に行きますが、その際、「落とし穴」のいたずらにあい、アキレス腱を切ってしまい
     それから、しばらく休職するようになります。

     子供たちは、先生に会いたくて、先生の住んでいる一本松のある岬の家に歩いて向かいますが、途中
     で歩けなくなる子もいました。 偶然にも、先生の乗った「バス」が通りかかり、子供たちを見つけたので
     降りました。

     先生の家は、すぐそこだといい、いっしょにみんなと歩いていきました。
     そして、ごちそうをいただき、「一本松で記念写真」も撮りました。

     先生は、その後、「本校」に異動しましたが、「5年生」になった「子供たち」と再会します。
     しかし、世の中は、次第に暗雲が垂れ込めるようになります。

     「戦争」や「不景気」が襲うようになり、先生は「軍国主義」の教育指導には耐えきれず、子どもたちの
     卒業を機に、退職します。

     時代は流れ「戦争」も終わりました。 長く教職を離れていましたが、教師になった「教え子」の計らいも
     あり「先生」は、再び、「分教場」で教壇に立ちます。
     そのときの「児童たち」は、「新米教師」として赴任したときの「教え子たち」の子供もいました。

     また、今は大人になった、かつての「教え子たち」による、「歓迎会」も開いてくれました。
     顔ぶれを見れば、病死や戦死してしまった子。 失明の負傷をしてしまった子。 消息のわからない子
     たちもあり胸が痛むのでした。 先生の家族にも、犠牲者がでました。

     「歓迎会」では、当時、みんなで撮った「一本松の写真」を懐かしくみるのでした。
     「失明した磯吉」は、自分には見えるといい、一人一人の名前を指差します。

     でも、その「なぞる指先」と「写真の人物」とは、ずれているのです。
     しかし、先生は、「そうだわ・・・」と、明るい声で涙するのでした。。。 完


    ◆ 「二十四の瞳」について

     ・この小説の主題は、「戦争」を問題提起していることはわかります。 しかし、その「悲惨さ」を伝えた
     ばかりではないのでしょう。

     やはり、「不幸(-)」な時代を描いたからこそ、「人間」として「美しい面(+)」にも「再認識」させてくれたと
     思います。

     要するに、「夏目漱石・こころ」のように、悲劇的な「死」を描きましたが、単に悲劇として書いたのでは
     なく、逆説的に、「生」の大切さや、「人」としての「教訓」が得られます。
     「不幸」な事件があったからこそ、「問題意識」も明確化し「改めて考えさられる機会を得た」と思います。

     同じように、「二十四の瞳」も、「不幸」な「戦争」の前後の時代を描写したわけですが、だからこそ、
     そんなときほど「人間性」の「善と悪」は、表面化し明確になるものです。

     「フランクル・夜と霧」では、強制収容所の「過酷な究極の状況」に置かれた人々の姿には、「鬼」のよう
     な行動をとったものもいたでしょうが、「天使」のような「清らかな人間」の姿もありました。

     このように、「戦争」という「究極」の「不幸」の状況では、人間の「悪い側面」を露天する人達もいるで
     しょうが、逆に、「善の人間性」を垣間見ることもあるわけです。

     「二十四の瞳」では、「戦争」は「悲惨」ではありましたが、「人間の美しさ。温かさ。優しさ。思いやり」
     もあることを、「改めて、再認識」させてくれました。

     なので、この小説は、最初から最後まで、「先生」と「教え子」との関係において、随所に「カタルシス」が
     あります。 「心」が「洗われます。救われます」。

     細かな場面は割愛いたしますが、だからこそ、この小説は「不朽の名作」なんだと思います。

     ・余談ですが、「小説」もいいのですが、「映画」はさらにすばらしいですね。
     私も、「DVD」をわざわざ買いました・・・。 何回、観ても、涙がでます・・・。





   ■ M 「金色夜叉」(尾崎紅葉)   (「許す」ことについて)


    ◆ 「金色夜叉」のあらすじ

     ・学生の「間 寛一」は、世話になった家の娘、「鴫沢(しぎさわ) 宮」と許婚の仲でした。
     ある日、「カルタ会」に出かけた折、そこで「銀行家」の息子「富山」に見初められます。

     「宮」が、なんと「富山」に嫁ぐようなので、本心を確認しようとしますが、心変わりを知り激怒します。
     「寛一」は、言いたい放題罵倒を浴びせて、さらに「宮」を「足蹴」にして去っていきます。

     「寛一」は、失望のあまり、自暴自棄のようになってしまい、人生を鬼と化したように「高利貸しの手代」
     として生きていきます。

     「宮」は、「寛一」より、金持ちの「富山」と結婚したほうが「幸せ」になれると、打算したわけですが、
     嫁いだ後の「現実」は、淋しいものでした。

     「宮」も、ようやく、幸せは「お金」だけではないことに気がつき、「寛一」に詫びをいれますが、「許して」
     もらえません。。。 続く。


    ◆ 「金色夜叉」について

     ・「金色夜叉」というタイトルや、あの「足蹴のシーン」と「今月今夜のこの月を…」の名セリフは、小説を
     読んだことのない人でも知っている人は多いかと思います。

     確かに、「女性」側からすれば、「愛」はあるが、「将来」成功するかどうか、まだわからない「男性」よりも、
     「今」、目の前の「現実」において、「金持ち」のボンボンに求婚されれば、誰だって? 心は動くでしょう。

     まして、「美人」の「宮」。 女性側からすれば、「女としての幸せ」を、「美貌」に見合ういわば「金勘定」
     をしてしまうのは当然でしょう。 女性側にだって「選択」する権利は、いくら時代が違うとはいえ、人間
     としてあります。

     そう、「客観的」に考えれば、「宮」が心変わりして、「金持ち」へ傾くのも、仕方がないともいえるわけです。
     しかし、当の本人である「寛一」としては、確かに、「感情」というものがありますから、「客観的」に割り
     切れないことも分かりますから同情もします。

     けれど、「宮」が現実を知り、「後悔」して「詫び」ているにもかかわらず、「寛一」はまったく「許しません」。
     まあ、「小説」として、「詫び」を受け「許して」しまえば、話しは終わってしまうので、「書き続ける」ために
     構成上、「許さなかった」のかもしれませんが、「人情」的には、もう「宮」を「許して」あげてほしかった・・・
     と思える作品ですね。

     ・ちなみに、「書き続ける」ために・・・。 ですが、この「金色夜叉」の構成は、大変、長い小説でして

          ・「金色夜叉」(前編・中編・後編)
          ・続。「金色夜叉」
          ・続続。「金色夜叉」
          ・新続。「金色夜叉」。(未完)

     ということで、まだ、「書き続けたかった」ようです。 とにかく、「つづく」。。。のです。




inserted by FC2 system