文学の散歩道 @



「作詞」と「小説」の小話です。 
   
文学の散歩道 2
  
「歌」は「3分間のドラマ」
  
■ A 「古都」(川端康成)            「美しさ」の「象徴」、千重子
■ B 「雁」(森鴎外)               「お玉(たあ坊)」の「淡い乙女の恋物語」
■ C 「送り火」(堀江敏幸)           「死」。「親としての責任を果たせなかった無念さ。償い」
■ D 「にごりえ・たけくらべ」(樋口一葉)     「女」として「生まれる・・・」。それが「不幸」の始まり
■ E 「不如帰」(徳冨蘆花)           「心の救済」
■ F 「其面影」(二葉亭四迷)         「理想」と「現実」
■ K 「こころ・夏目漱石」            「こころ」




   ■ A 「古都」(川端康成)  (「美しさ」の「象徴」、千重子)

    ◆ 「古都(川端康成)」について 

     ・「古都」も大好きな小説なのですが、一言でいえば、まさに「美しい」小説です。
     「ヒロイン」である商家の一人娘「千重子」を中心に、「京」を舞台に、移ろう「四季」の彩のある
     「長編小説」です。

     この小説は、「日本の美しい伝統文化」を守りたい・・・。という「主題」があるのでしょう。
     その「日本の美しい伝統」とは、京の「自然・風景・景観。文化・祭り。寺院仏閣・建物」などだけでは
     ありません。 そこに住む人たちである、「人の美」。すなわち、「心の美」。「人情美」ということです。

     「明治以降」、日本は、「文明開化」である「近代化」を急激におしすすめようとしました。
     そして、「昭和」の敗戦後には、さらに、欧米に追い付け追い越せの掛け声と共に、奇蹟の復興を
     果たし、「経済大国」となりました。

     それは、「すばらしい」ことです。 しかし、「プラス」の面だけだったのでしょうか?
     全てを、「西洋文化」。「近代化」にしてしまっていいのでしょうか?

     古(いにしえ)から続く、「日本の伝統文化」。守り続けてきた「自然」を破壊し、なくしてしまっても、
     やはり、すばらしいことなのでしょうか?

     「日本伝統文化」にも、「いいもの」があるはずです。
     その代名詞。象徴とも言える、「古都・京都」。 このことを「作者」は「訴えたかった」のでしょう。
     そういう思いを「くみ取り」ながら、この「小説・古都」を読んでください。


    ◆ では「長編小説」ではありますが、かいつまんで「あらすじ」などを簡単にお話ししてみたいと思います。
     「全体構成」としては、「4部構成」に、大別できます。

     「春・夏・秋・冬」と、季節で分けられるでしょう。 まさに、「起承転結」を予感させる構成です。
     そして、この「四季」を巡る中で、京都の観光地や、祭り、景観、史蹟、自然風景の彩を織り込み
     ながら、まるで「京都」に住んでいるかのような気分にさせられる設定です。

     「女主人公」である「千重子」は、京の中堅「呉服問屋」で、大切に育てられた「一人娘」です。
     「美しく、年頃」に育った「千重子」ですが、ときどき、ふと一人、「物思いにふける」ことがありました・・・。

     中庭にある「もみじ」の幹のくぼみに、「二株」の「離れて」咲く「すみれ」の花・・・。
     「千重子」は思います。 「なぜ」、「こんなところ」に咲いているのかしら・・・。
     「二株」の離れて咲く「すみれ」どうしは、お互いを「知っている」のかしら・・・。

     さらに、なにか「運命的」なことを感じるのでした・・・。
     「孤独」。「生命」。「こんなところに生まれ、生きつづけてゆく・・・」

     また、あるときは、「古丹波の壺」で飼っている「鈴虫」たちを見て、「生命・・・。生まれる・・・」という
     ことを、ふと思います。

     「千重子」は、薄々勘づいていました・・・。 自分は、この家の「本当の子」ではないと・・・。
     しかし、確認することはできません。

     ですが、「年頃」になった娘。 そして、「育ての親」も、互いにそのことは気にしていました。
     そして、ついに、その話しをします。。。

     しかし、「母」は、父が「千重子」をさらってきた・・・といいます。 そんなことがあるのでしょうか・・・。
     いくらなんでも、「人さらい」したようなばかな話しは、信じることなど到底できません。

     私(千重子)は、「捨子」だったのではないか・・・? そう、尋ねても、「首を横」に振るばかり。。。
     これは、「育ての親」の「親心」でした・・・。

     その話しは、結局、うやうむやに終わりますが、とにかくこの家の「本当の子」ではないことは分かりました。
     なので、当然の心理ですが、「本当の親」に会いたい。探したい。 「姉妹」もいるかもしれない・・・。
     そう思うのでした。

     そんなことを思いながら、悶々とする日々を過ごしていた祇園祭の夜、ついに「自分そっくり」の「娘」に
     出会うのでした。。。 その「娘(苗子)」も、「千重子」を同じように捜していたのです。

     「二人」は、「姉妹」である・・・。ということが、即座に分かりました。
     「瓜二つ」の「容姿 容貌」を持つのですから、無理もありません。

     どちらが姉で妹かは分かりませんが、とにかく、「双子の姉妹」であることがわかりました。
     その娘は、「苗子」といい、「北山杉の村里」に、杉の手入れをする仕事をしながら、実の両親は、
     すでに亡くなり、仮間で「一人暮らし」しているといいます。 なかなか、大変な暮らしのようです。

     「千重子」は、「苗子」に、私が住んでいる「商家」で、「いっしょ」に暮らさないか・・・と誘います。
     しかし、「苗子」は、「村育ちの娘」です。 いまさら、「京町娘」やら「商店(だな)」なんていう、「京の町」
     の華やんだ暮らしの中に入っていくことをためらい、引け目を感じているせいか、「苗子」は「千重子」が
     実の姉妹にもかかわらず、「お嬢さん」と呼ぶほど、他人行儀するように、まるで、「身分違い」でもある
     かのように、京の町に暮らすことを「拒む」のでした。

     ですが、「千重子」としては、やはり、それでは気が済みません。
     せめて、「一度」だけでも、私の家に泊まってほしいと懇願し、「苗子」はようやく、ある晩、訪れるの
     でした。

     「千重子」の「育ての両親」も、大喜びです。 「美しい年頃に育った千重子」が、急に「二人」に
     なったのですから・・・。 もちろん、「育ての両親」も、「苗子」に、ここでいっしょに暮せばよい。自分の
     子供として引き取る・・・といってくれます。

     しかし、結局は、その話しを「断り」ます。
     一晩「姉妹」で積り積もる話をし、いっしょに寝た明くる早朝、まだ、周りは寝静まる、静寂の雪の降る
     中を、「北山杉」の家に「一人」帰っていく「苗子」の後ろ姿を淋しく見送る「千重子」でした・・・。 完

     以上が、「あらすじ」なんですが、まあ、「捨子」。「姉妹の再会」は、インパクトがある出来事ではある
     のですが、それ以外では、特に、これという「インパクト」の話しがあるわけではありません。。。

     では、「なぜ」この小説がそんなにもいいのでしょうか? それを次にお話したいと思います。


    ◆ 「主題」はなにか。

     要するに、「主題」はなにか? ということです。
     この小説の「テーマ」は、なんでしょうか・・・

     「千重子」が「捨子」であったことでしょうか。 また、「双子」の姉妹の「運命的再会」でしょうか。
     「恋愛」でしょうか・・・ それらは、「物語」の構成上のネタの一つにすぎないものでしょう。


    ◆ 「美しい娘、千重子」は、なぜ、登場しているのでしょうか?
     実は、これが「カギ」なのではないでしょうか?

     「美しい娘の登場する」小説は、いくらでもあります。 それだけで、「テーマ」になるのでしょうか・・・?
     しかし、この作品では、「美しい」ものは、たくさん登場します。 「美しい」、季節の変化。祭り、景観
     建物、風景、文化、そして、なんといっても、「美しい人々」です。

     長編小説であるので、登場人物も多いですが、その登場人物たちは、皆「美しい」。
     「美しい」・・・というのは、「容姿容貌」だけではありません、「人の心」。「人情」です。

     「美しい心」とは、なんでしょうか? 
     簡単にいえば、人としての、「思いやりの心」。「素直な心」といったことでしょう。
     この「美しい心」が、登場人物たちの共通の要素です。

     その「美しい心」の象徴が、「美しい娘、千重子(苗子)」なのでしょう。
     「素直な心」。「無垢な心」。「真っ直ぐな心」。「温かな思いやりの心」を持つ、ヒロイン「千重子」

     そして、誘われるように、引き寄せられるかのように向かう、「北山杉」のある山里。
     「北山杉」は、まるで「千重子」のように、「真っ直ぐ」で「きれい」に立っている「美しい杉」です。
     さらに、その「北山杉」の手入れをしながら暮らす、「千重子」と双子の「苗子」。
     とにかく、この作品は、「日本の伝統的な美しさ」に満ち溢れています。

     このように、「千重子(苗子)」を中心とした、「美しい」物心、景観に溢れています。
     しかし、今の時代。「豊かさ」を追求しようとする「近代化」の流れは、同時に、「自然」を破壊し、
     「伝統文化」をも消失させようとしています。

     このままでいいのでしょうか・・・。 やはり、日本人であるならば、貴重な「伝統美や文化」が残る
     「心のオアシス。象徴」ともいえる、「古都」を「守り続けること」が大切なのではないでしょうか?
     そんな「意図」を含むメッセージが、「主題」なのではないでしょうか。

     「新しい近代文明化」は「よい」もの。「古臭く、また不便ばかり」な「伝統文化」は「不要」と、決め
     つけられ捨てられてしまいそうな今の時代。 しかし、それは、同時に「人の美しい心」までも失わせる
     ものではないでしょうか・・・。 そんな「問題提起」。「苦言」こそが、「深層」にある「主題」なのでしょう。

     ということで、この小説は、「日本のふるさと」。「心のふるさと」の「象徴」でもある「古都・京都」。
     それは、「美しい自然が残る・伝統・景観」だけでなく、そこに息づき暮らす「人々」も「美しく」します。

     だからこそ、「豊かさ」だけを追い求めようとする「近代化」だけのために、「古くて不便」なところも持ち
     合わせているであろう、「美しい伝統ある日本」。「心のオアシス日本文化」を失ってもいいのでしょうか?

     いや、「守るべき」もの。「守り続けなければならない」ことなのではないでしょうか。
     そんなことを考えさせられる小説です。

     「美しい伝統」を失うことは、「美しい人の心」までも、失わせるおそれもあります。
     そんなわけで、この小説を読むと、「古都・京都」って、「伝統」って、「日本」っていいなあ。と思います。
     私も、一番行きたいところは、「京都」です。 「毎年」でも行きたいし、いや、そこで暮らしたいと
     思いたくなるくらいでもあります。
     そして、また、「千重子(苗子)」を始めとする、周囲の人々とともに会いたくなるのです。。。

     ということで、この小説は、なんとも「心」を「清く美しく」させられる物語なんです。
     すなわち、「カタルシス」気分が味わえるからこそ、特に、人気のある作品なのではないでしょうか。
     実際、「伊豆の踊子」と同じく、「山口百恵」さん主演で、こちらも映画化されています。。。


    ◆ 余談ではありますが、この作品は、「ストーリー」が途中で終わっているような余韻を残します。
     「最後」の場面は、「千重子」と「双子」である「苗子」との「別れ」でした。

     しかし、この場面は、特別な場面ではないでしょう。
     「村娘」の暮らしが長かったわけですから、急に「苗子」が、すんなり「町娘」のお嬢さんのところに来れる
     心境には、だれだってなれないでしょう。 「双子の再会」という衝撃がまだ残っているでしょうし、それに

     いくら、「千重子」と「双子」である、実の姉妹関係であるといっても、別々の暮らしをしていたわけです
     から「他人行儀」もありますし、「千重子」の養父・養母とは、他人ですので、やっぱり「他人の家」の
     感じです。 だから、「時間」をかければ、気持ちも落ち着き、考えだって変わることも十分あり得ます。

     別に「双子」の「別れ」といっても、単にとりあえず、元の暮らしに戻るだけですし「死別」したわけでも
     ありません。 地理的にも、「苗子」の住む、京の町外れに位置する山里ではあれ、町中とは、「バス」
     で行き来できる程度ですから、わりと近い距離です。

     ということで、「双子」の「別れ」は、大したことではありません。
     また、いつでも「遊び」に行ける。会えるわけです。 別に、「会いたくない」という「拒絶的な別れ」でも
     ありません。

     今回は、再会したばかりですし、初めての訪問ですから失礼します・・・程度のことでしょう。 冷静に
     考えてみると。 それに、「本文」の流れとして、とにかく、「完結」していません。 いろいろ、「話しの
     途中」です。

     話しの流れを追えば、「苗子」は、町中の織物職人に、事実上の「プロポーズ」を受け、「千重子」に
     相談していますし、また、よい話しだとすすめられている最中です。

     それから、「千重子」の、傾きつぶれかけている、中堅「呉服問屋」も、大店(おおだな)「呉服問屋」の
     長男が、婿に入ってでもいいから「千重子」といっしょになって、がんばろうとしています。 「千重子」も
     前向きのような流れです。

     もちろん、これは「主題」ではなく、「表層」の話しですので、特別なポイントではないのですが
     それでも、やはり、「物語。ストーリー」の何らかの「完結」がないと、続きが気になります。

     たぶん、作者・川端康成は、超人気作家ですから、多忙で、次から次へと、別の作品も平行して書い
     ていたようですし、「続き」を書きたくても「書く暇がない」ことも多分にあったかと思います。

     ということで、「古都」は、「続編」が読みたくなる。登場人物たちの今後が気になる作品でもありました。

     ・追記。大切なことを忘れていました。 「美しい」といえば、「京言葉。口調」です。 
     特に。「千重子」の話す、「可憐で無垢で、優美」な「言葉使い。口調」は、なんとも「美しい千重子」
     を想像させてくれます。。。 この「言葉使い。口調」だけでも、「幸せ」な気分にさせられます。

     これは、作者・川端康成も、かなり「こだわり」があって、「力を注いだ」ようです。





   ■ B 「雁」(森鴎外)  (「お玉(たあ坊)」の「淡い乙女の恋物語」)

    ◆ 「雁(森鴎外)」について、書いてみたいと思います。

     ・この作品は、「淡い乙女の恋物語」・・・的な感じなので、「伊豆の踊子」のようにこれも大好きな
     小説です。 では、まずは、簡単に「あらすじ」を書いてみます。

     場所は、「東京、上野・神田」周辺。「明治」のお話しです。 貧苦のため「妾」になって、「無縁坂」の
     通りで、別宅の小家を与えられて、「小女(女中)・お梅」と「二人暮らし」していた、「お玉」という
     「身綺麗で、可愛らしい娘」がいました。

     ある日、「大学生(岡田)」が、その家の前を通りかかったとき、たまたま、「湯帰り」で家に入ろうとして
     いた「お玉」と、「偶然」、目が会いました。 そのときは、単に、すれ違い程度の面識で、お互いなん
     とも思っていませんでした。

     しかし、岡田は、この周辺の下宿に住み、よく散歩もしており、この「無縁坂」も毎日のように通ってい
     ました。 なので、次第に「お玉」と「岡田」は、「会釈を交わす」ような関係になります。

     ある日、窓辺に飼って吊るしていた「紅雀」の鳥籠が、「蛇」に襲われました。 しかし、「お玉」は怖くて
     どうすることもできません。 そんなとき「偶然」、「岡田」が通りかかったのです。

     「お玉」の難儀を見て助っ人になり、「蛇」を退治してくれました。
     それを「機会(きっかけ)」に、「お玉」は、「岡田」に「想い」を強くいだくようになりました。

     それまでの「お玉」は、「運命」に抵抗することもなく、仕方なしではあれ、卑しい「妾」とならざるを得
     ない人生であっても、結局、「受け入れる」。「流される」。「消極的」な人生を送っていました。

     しかし、この「機」を境に、「お玉」は、次第に「自分の意思」を持つ、すなわち、「自我に目覚めた」の
     です。 こんな人生ではいけない。 そして、こんな人生から、誰かに救ってもらいたい。と思うようになり
     ました。

     「お玉」は、次第に「恋心」も強く募るようになってきた「岡田」に、「想い」を伝えたい。また、この「妾」の
     状況からの「救い」を求めようとしました。
     要するに、「お玉」は、「岡田」と先日の「蛇退治のお礼」かたがた、「お近づき」になり、「新しい人生」を
     「切り開けたら(岡田と結ばれたら)」・・・。と、「積極的」に考えるようになったわけです。

     しかし、「お玉」は「妾」の身。 囲われている主の「旦那」が、いつなんどき、尋ねてくるかもしれぬ。
     勝手に外出などもできぬ。 また、「小家」には、良くも悪くも「小女(女中)・梅」がいつもいる。

     だから、通りすがりの「岡田」に、声をかけたくても、「旦那」や「お梅」の「人目」が憚(はばか)われる。
     そんな折、「偶然」にも、「旦那」は用があって、今日明日は仕事の外出で帰ってこれないだろうとの話。

     「旦那」は「留守」。 あとは、「お梅」さえいなければ・・・。ということで、盆暮れくらいしか内には帰さな
     いのが、この時代は普通なのだけれど、うまく「口実」を使い、今日明日、内に帰した。

     これで、「自分一人」。 人の目を気にする心配はなくなり、あとは、なんとか「岡田」が自分の家の前
     を通りかかるときを見計らい、「声」をかけよう・・・と、ほうきを持って玄関先を掃いている振りをして、
     さり気なくスタンバイします。

     ところが、「不運」の「偶然」です。 折角、準備万端整えた、「チャンス」にもかかわらず、
     「岡田は「一人」ではなく、男友達と「二人連れ」だったため、声をかけられませんでした。

     その「二人連れ」になった訳も実は、たまたま、「偶然」、下宿で夕食に出た、岡田の嫌いな
     「さばの味噌煮」が出たので食べられず、代わりに「外食」に行くのですが、ついでに、下宿の部屋隣の
     学生を誘ったのでした。

     「行き」では、「お玉」が「岡田」に声をかけられなかった「状況」でしたが、「帰り」がけのときなら・・・。
     と、次のチャンスを待っていると、これまた「不運」。 男「三人連れ」だったため、結局、その日は声を
     かけられませんでした。

     さらに、「運悪く」。 岡田は、卒業を待たず急な就職が決まり、すぐさま「洋行(外国に行く)」してしまっ
     たのです。 なので、とうとう、「お玉」は、「岡田」に声をかける「チャンス」を逃してしまったのです。完

     要するに、「お玉」の「願い」は、叶わなかったわけです。
     と、まあ、かいつまんでいいますと、こういう「ストーリー」です。


    ◆ では、この小説の「主題」はなんなのでしょうか?

     大別すると、「2つ」になるのではないでしょうか。

       (1)。「偶然」。「運(不運)」。「運命」に関すること。
       (2)。当時の急激な西洋近代化が進められたことによる、「エリート層」と「庶民層」との「考え方」。
          「思想」のギャップと歪み・ねじれ。 また、それから生じる「社会の弊害」。

     ということでしょう。

     (1)については、この小説では、「偶然」が、次から次に重なる。ということをポイントに物語が進みます。
     「偶然性」とはなにか?  また、「お玉」が「岡田」に、想い願ったことが、「偶然性」により「運が悪く」て
     「叶わなかった」のか? 

     それとも、この「不運」の「偶然性」が「あっても、なくても」、「結果」は「同じ」だったのではないか? と
     いったことが考えられます。

     要するに、この「不運」の「結果」は、もし、「お玉」が、「岡田」が一人であって「うまく声をかけられた」
     としても、その後、「お玉」が思う通りの「幸せ」な「運び、展開」になったかどうかは「疑問」ということです。


     ・なぜなら、ここで(2)が関与してきます。
     当時の世の中の思想は、近代化のあおりで、大別して、「エリート層」と「庶民層」に別れ、「考え方」の
     ギャップ。歪み・ねじれが生じ始めていました。

     そうした「考え方の違い」は、世の中にいろいろな弊害も、もたらしだしていたのです。
     その近代化に伴う新しい「西洋の考え方」を持つ教育を受けている、一部の「エリート層」と、

     「お玉」のように、教育も小学校の途中までしか受けていない。 「三味線」。「裁縫」ができれば、
     女子(おなご)は、後は、嫁に行けばよい程度の「庶民観」は、まだまだ多くの人たちには残り、その
     「庶民層」の一人である「お玉」のような人達との「ズレ」は一層、ひらくばかりでありました。

     なので、「お玉」は、「岡田」に対して、「人生の夢」を追っているけれど、その「岡田」本人は、「お玉」は
     「身綺麗で可愛らしい娘」ではあるので、それなりに「女の子」として、青年である以上、興味は起こり
     ます。 しかし、「それ以上」の興味は「ない」のです。

     要するに、「エリート層」の岡田の「未来・将来観」には、いろんな意味で「上流階級」の「人生観」を
     持っているわけです。 「仕事」も「エリート層」のする職業に就くことでしょうし、また、結婚相手となる
     「女性」も、「エリート層」。「上流階級」にふさわしい「女性像」が、当然、頭にあるわけです。

     すなわち、意識・無意識にせよ、「エリート層」の岡田には、「お玉」のような「下層階級」の「庶民」と
     いう人達は、「興味の対象外」なわけです。 なので、「お玉」であろうが、別の娘だろうが「庶民」は
     「庶民」。 「庶民」の娘は、「対象外」。 相手にする気持ちは、はなから「ない」わけです。

     なので、岡田は急な就職が決まり、洋行するわけですが、「お玉」には、なんの一言も言わず行ってし
     まいます。 ということで、仮に、「お玉」が「岡田」に、声をかけられたとしても、「お玉」の想うような運び
     には、たぶんならないでしょう。 なので、これも「エリート層」と「庶民層」との「考え方」。「思想」の違い
     ギャップの一例でもあるのでしょう。

     このように、(1)。(2)である、「運」によるものからくるものか、または、「思想のギャップ」によるものなのか
     を考えさせられる物語でもあります。 いわば、「問題提起」ともいえるかもしれません。

     この、急激な近代化による、「エリート層」と「庶民層」との「ギャップ」と、そこから生じる社会の弊害。
     問題は、この「明治」の小説家の、「重要」な「主題」となるケースが多分に見受けられます。

     さて、「主題」なるような話しはこの程度に止め、それ以外の「恋物語」としての話しのほうが、この小説
     は、「伊豆の踊子」同様に、ほのぼのとしていて楽しいので、こちらの話しをしてみたいと思います。


    ◆ 「お玉(たあ坊)」の「淡い恋物語」

     「お玉」は、最初は「十六、七」の娘として登場していますが、それから「数年間」の物語ですから、
     「十六、七」〜「二十歳」くらいまでの「お玉」ということです。

     「お玉」は、「伊豆の踊子」に似たような「女の子」でもあります。
     「素直」で「無垢」で、「おぼこ娘」です。 些細なことで、やはり「顔を赤らめ」ます。
     とにかく、「身綺麗」で「可愛いらしい」女の子です。 また、「親思い」でもあり、親孝行のためと、
     「妾」になってでも、お父さんを楽にしてあげたいと、身売り同然で「妾」になったほどです。

     そんな「お玉」ですから、「優しく」、また、「あどけなさ」を感じるようなほのぼのとした作品でもあります。
     なので、その「お玉」の右往左往する、なんとも「かわいい」様子が、この小説の楽しさでもあると思い
     ます。 というか、この「お玉」の場面がなければつまらないので、私は、二度と読まないでしょう・・・
     そのくらい、「お玉」の存在は、魅力がありますし、「主題」の(1)(2)は、どうでもいいです。

     タイトルの「雁」とは、ある「不運」によって死んでしまった「雁」と、「お玉の悲恋(不運)」を重ねたもの
     ですが、それは、どうでもいいのですが、やはり、単純にこの小説は、「淡い乙女の恋物語」に視点を
     おいて読んで、ほのぼの楽しむのがいいようにも思います。 要するに、娯楽的に「伊豆の踊子」を
     楽しむように。

     せっかくですので、いくつかその場面を取り上げてみましょう。
     ・例えば、「お玉」と「お梅(小女・女中)」との場面。
     「お梅」は、「お玉」のために、「女中奉公」している娘です。 年齢は、文面からすると、まだ、
     小学生程度ではないでしょうか。 食事の用意をする様子も「ままごと」をしているようだとありますから。

     また、「お玉」は、優しい娘ですし、年齢的にも、いわば、「姉妹」のような年の差でもあり、それに、
     「お玉」は、「一人娘」でしたから、姉妹はいなかったので、まるで「お梅」を、「女中」というより「妹」の
     ように相手をします。

     なので、「料理」の支度も、結局は、「女中」がする。といより、「姉・妹」がいっしょに楽しげに料理の
     支度をします。 また、冷たい井戸水にあかぎれした手をいたわり、手袋を与えてやります。
     そんな「お玉」と「お梅」の二人の場面は、ほのぼのとして、「お玉」の人柄が好きになります。


     ・また、「蛇事件」を「きっかけ」に、「岡田への思慕」が募るのと同時に、「自我の目覚め」をし「成長」
     していくお玉ですが、その時の「お礼」かたがた、「恋しい想い」を伝えたい。声をかけたいと、苦慮して
     いるときの場面では、「ああでもない、こうでもない」。「どうしよう、こうしよう」と、「乙女心」が右往左往
     するところは、なんとも読んでいて、可愛らしく楽しくなります。

     しかし、「妹」のように大切に相手をしている「お梅」ではありますが、この時ばかりは、「邪魔者扱い」を
     して、なんとか今日明日だけは追い出そうとします。 悪気があるわけではなく、単に、「お玉、一人」
     になって、「岡田」への「恋のアタック」チャンスの機会を作り出すためだけの理由ですから、普段の
     「妹」扱いどころではないわけですが、このときの場面も、「あどけない子供っぽさ。娘らしさ」を感じさ
     せる「お玉」の様子も、些細な場面ですが、いいですね。


     ・話しは、横道にそれますが、「作詞」に関係する話しです。 「歌詞」を書くとき、「どんなことを書けば
     いいか?」悩みますよね?

     「作詞」をする場合、人それぞれでしょうけれど、自分の場合でしたら、こんなことを意識します。
     一つは、「ストーリー(あらすじ)」ですよね。 どんな「出来事」があり、どんな展開、結末になるかという
     「ドラマ」は意識します。 しかし、それは、なかなか難しいものです。 「ネタ」を考えるのが、まずは、
     なんとも、大変です。


     ・次に、確かに、「ストーリー(あらすじ)」は大切です。 ですが、それ以上に大切なことは、「心」を書く。
     という点に留意することではないでしょうか?

     「ストーリー(あらすじ)」は、「起承転結」という「場面」なのですが、
     「場面」とは、「出来事」と「心の動き」が「セット」でないと、「作詞」にはならないと思います。
     これは、「国語・現代文」で学ぶ、「読解」時の「重要な目のつけどころ。意識して読むポイント」です。

     「場面」は、「出来事」と「心の動き」が「セット」であるわけですが、どうしても最初は、「作詞」する場合
     も、「出来事」だけが書かれて終わってしまうパターンになりやすいものです。

     要するに、「出来事」だけが書かれている。 それに関係する「心の動き」の「心理描写」が「ない」ので、
     「無味乾燥」。「味気ない」感じになりやすいです。

     この「心理描写」も、「好きよ、好き好き」のように、「直接表現」されると、「恋愛感情」の表現としては
     「好き」であることが、ダイレクトに伝わりますが、しかし、ただ、同時にそれでは「引いてしまいます」。。。

     「小説」でも当然そうなのですが、例えば。「好き」ということを言いたいがために、「間接表現。描写」に
     工夫し考えることこそが「重要な作業」でしょう。 というより、それが「恋愛小説」の「ポイント」でしょう。

     「伊豆の踊子」でいえば、「学生さん」にお茶を出すシーンでは、学生さんを意識しすぎるあまりに、
     手がぶるぶるふるえて「お茶」をこぼしてしまいます。 そして、女座長に小言まじりの言葉をいわれ、
     「顔を赤らめます」。

     すなわち、「踊子」は、「学生さん」が「好き」ですとは、「直接」は言ってはいませんが、明らかに「好き」と
     「間接」的に表現されているわけです。 「言わずして、言う」(表現する)。
     これが、「心理描写の極意」でしょう。

     これは、「作詞」でもまったく同じです。 ということで、やはり、「小説」と「作詞(歌詞)」は、まったく同じ。
     「作詞(歌詞)」は「ミニ小説」だと思います。

     話しは尽きませんので、一旦ここで筆を置きたいと思います
     ちなみに、「お玉」に関しては、「お玉の成長(変化)」である、「自我の目覚め」も、読み所だと思います
     が、今回は、この程度とします。





   ■ C 「送り火(「雪沼とその周辺)より」(堀江敏幸)
      (「死」。「親としての責任を果たせなかった無念さ。償い」)

    ◆ 「送り火(堀江敏幸)」について、書いてみたいと思います。

     ・この作品は、「雪沼とその周辺」の「短編集」の中の「一編」です。
     また、「大学入試センター試験」で本文の一部が抜粋されて出題されましたので、結構、有名ではない
     かと思います。

     私は、「ほのぼの」系の作品が好きなので、「小説」も「歌・音楽」も、「ほのぼの」とした感じの作品を読
     んだり書いたりする傾向がありますが、この「送り火」も、そんな作品の一つです。
     では、簡単に「あらすじ」の紹介をしておきます。


    ◆ 「あらすじ」の紹介です。 まず、「現在」の場面から始まります。 

     ・主人公は、「絹代さん」と「陽平さん」の二人の夫婦です。
     「絹代さん」は、「小旅行」をすると、各地にあるレトロ感のある、「灯油ランプ」を買い集めることが趣味
     でした。 今回も、「旅の記念」に「ランプ」を買ってきました。 ですので、もう、家には、「四十以上」も
     ありました。

     こんなに「集めて」・・・。 誰しも、そう思いますが、実は、この「灯油ランプ」はこの物語の最後のオチに
     絡んできます。 


     ・さて、ここで一旦、「現在」の場面が区切られ、次に、「回想」の場面になります。
     この「回想」場面が、「大学入試センター試験」に出題された抜粋部分です。

     この「回想」場面は、「絹代さん」と「陽平さん」の二人が、「出会い」そして「絹代さん」が「プロポーズ」
     されるまでのお話しです。 では、その内容です。

     「絹代さん」は、郊外に古めかしい昔風の家に住んでいました。 ですので、わりと広い部屋もあり、また
     「祖父。父」も亡くなり、今は「母と娘」の二人暮らしのため、使わない「広間」がありました。

     「母と娘」の二人暮らしも淋しく、また、使わない「広間」もそのままでは勿体ないですから、「貸間」に出
     そうとしました。 それを借りに来たのが、「陽平さん」でした。

     本来は、「貸間」の条件は、「独身女性」とゆうことになっていたのですが、思いもかけず、「陽平さん」と
     いう「壮年の男性」が訪れました。 当初は、「お断り」するつもりだった「母」と「絹代さん」でしたが、
     「陽平さん」の借りたい「理由」と、話し「口調」に、「信用」できそうな人・・・だと感じ、結局、貸すこと
     になりました。

     「陽平さん」の借りたい「理由」とは、「書道教室」を始めたい。ということでした。
     なので、「昼間」の時間だけ、「住む」ためではなく、「通い」で借りたい。ということでした。
     そのために、いろいろ運営的な面で、この「貸間」がよいと判断し借りにきたわけです。

     いよいよ「書道教室」が始まりました。 そして、「子供」たちが、次第に集まるようになり、出入りするよう
     になりました。

     そうすると、「雰囲気」はがらりと変わりました。 「母」と二人暮らしの淋しかった雰囲気も、にぎやかにな
     ったからです。 そして、「書道教室」を通して、次第に「絹代さん」と「陽平さん」は当然ですが、心も
     うちとけた関係になっていきます。

     そして、ある「書道教室」の「新年会」で、みんなで「書初め大会」をするわけですが、その席で飛び入り
     参加した「絹代さん」のいるところで、「書初め」に便乗して、また、
     当時の「人気テレビ番組(シルクロード)」に引っ掛けて、「事実上」の「プロポーズ」である、「絹への道」と
     「抱負」を披露したのでした。 要するに、「シルク=絹(絹代)」への、「ロード=道」。ということです。

     「絹代さん」も、突然のハプニングで戸惑いますが、それが、「陽平さん」からの「プロポーズ」であることは
     すぐに分かりました。。。 そして、「絹代さん」は頬を赤らめるのでした・・・。


     ・その後、「絹代さん」は「陽平さん」の妻になり、二人の「馴れ初め」の「回想」場面は終わります。
     そして、ここからは、「現在」に戻ります。

     この「現在」は、「由(ゆい)」という息子の「十三回忌」の法事の後の、焼香に来てくれた自転車屋の
     店主との会話の場面となります。そして、思い出話しなどをします。

     そうです。「二人」には、「息子」がいました。 しかし、13年前の当時、小学生だった息子が、台風の
     大雨の中、自転車を引いて歩いている最中に流され、亡くなったのでした。
     また、その自転車は「無灯火」でした。

     もし、「灯り」がついていたら、誰かが気づいて、止めてくれたかもしれない。 死ななくてすんだかもしれ
     ない。 という後悔の念がありました。

     法事も終わり、「絹代さん」と「陽平さん」だけになった夜。 急に、「絹代さん」は、「ランプ」に
     「火を灯しましょう、今」。と言い出します。そして、たくさんあるこれらの「ランプ」を庭で灯し、近くの「山」
     から眺めましょう。というのでした。

     「陽平さん」は、「絹代さん」の勢いにおされ、しぶしぶ、「ランプ」に灯を灯し、二人で「山」に駆け登ろ
     うとします。 しかし、その途中で、「陽平さん」は、風邪一つひいたことのない人だったのに「ふらふら」
     としてしまいます。。。 完


     ・という「あらすじ」です。
     最後は、「二人」が「山」から、「庭」の「灯したランプ」を眺めることも「なく」、その「途中」で終わってい
     ます。 話しの流れからして、「不幸」な「結末」が想像されますよね。。。 


    ◆ では、「主題」はなんでしょうか。

     ・たぶん、「死」について。ではないでしょうか。 また、付随して
     「親としての責任を果たせなかった無念さ。償い」。もあることでしょう。

     「絹代さん」の「祖父・父・母」。「息子」。「(夫)」の「死」が、これほど登場してきます。
     そして、「タイトル」の「送り火」からも、連想されます。

     ちなみに、「送り火」は、終盤のの「ランプを灯す」シーンでもわかるように、「息子」のための「送り火」
     としての「絹代さん」の想いもあり、「ランプに灯を灯そう」としたためなのでしょう。
     また、「息子の死」の「一つの不運」として、自転車の「無灯火」ということもあり、「灯」にも重なります。

     「絹代さん」が、無理やりといった感じなほどの勢いだったのは、「無灯火」だけではありませんが、それに
     付随した「親としての責任」を果たせず、「後悔の念」。「無念さ」。「自責の念」に苦悩されてきたことの、
     せめてもの息子への「償い」のつもりだったのでしょう。


    ◆ 「場面展開」と「起承転結」。「構成」

     ・では、「小説」。「歌詞・作詞」という観点から、「場面展開」と「起承転結」「構成」を見てみましょう。
     場面は、「回想」である、「絹代さん」と「陽平さん」の二人の「馴れ初め」の「場面一連」です。


        @。「第1場面」(起) [シチュエーション]

     ・これは、まず、「起」ということで、「絹代さん」の「貸し部屋」に対して、「陽平さん」が「書道教室」
     として「借り手」になるまでの経緯。場面です。

     「心の流れ」としては、「陽平さん」に対し「絹代さん」は、最初は「戸惑って(−)」いますが、話しでいる
     うちに、「信用できそう(+)」だと感じるようになります。


        A。「第2場面」(承) [シチュエーションの発展]

     ・次に、「書道教室」の子供たちによって、「母。娘」の二人暮らしの「淋しい(−)」環境から、
     「にぎやか(+)」な雰囲気になっていきます。


        B。「第3場面」(転) [契機・きっかけ・展開・大きな気持ちの変化]

     ・「絹代さん」の「名前の由来」にまつわる、いろいろな原因から、過去の「悪いイメージ(−)」を持つ
     ようになっていた「絹代さん」ですが、「陽平さん」の「墨」にまつわる話しを「契機(きっかけ)」に、解き
     ほぐされ、自分の名前に対して、「好い印象(+)」を持つことができるようになります。

     また、同時に、「陽平さん」に対する「絹代さん」の気持ちは、「信用できる他人の男性」から、さらに
     進んで、「恋愛対象」に「大きく変化」します。


        C。「第4場面」(結) [結果。結末]

     ・最後は、「結果」です。 「陽平さん」からのプロポーズを受け、「絹代さん」は「嬉しく」なります。
     そして、プロポーズを受け入れる「決心(結果)」をします。


     ということで、「場面展開」と「起承転結」「構成」を意識して捉えることにより、「作詞」時においても、
     「AA'BC」といった「構成」とは、どのように書いたらいいのかという勉強になるのではないでしょうか。
     とにかく、「小説」は、「作詞・歌詞」と、まさに、「同じ」だと感じますよね。。。





   ■ D 「にごりえ・たけくらべ」(樋口一葉)   (「女」として「生まれる・・・」。それが「不幸」の始まり。。。)

         (ザ・一葉 樋口一葉全一冊 愛蔵版) もちろん「文語体(原文)」です。。。 orz
         これは、安くて、おすすめ。 1冊で沢山の作品が読める。 「樋口一葉」ファン必読!!

    ◆ 「樋口一葉」について

     ・「樋口一葉」は、「女流作家」としては「大変有名」な方です。お札になっているくらいですからね。。。
     また、私も大好きな「作家・作品」ということで、「樋口一葉」について書いてみいたと思います。

     彼女の作品は、わずか「24才」という「短命」のため作品数は、わりと少ないのですが、それでも主な
     小説は、「22作品」ほどあります。

     ただ、「文語体」のため、国語の苦手な私には、外国語同然のため、気持ちよく読めませんので、
     一部の作品ではありますが、「口語訳・現代語訳」のものがありますので、こちらがおすすめです。

        「たけくらべ・現代語訳」・樋口一葉。  (たけくらべ・他)・全5作品
        「にごりえ・現代語訳」・樋口一葉。   (にごりえ・他)・全7作品

     彼女の作品は、「前期」は「恋愛小説」のような「幻想」的なものでした。
     しかし、「後期」に入りますと、がらりと変わり、「女性側」から見た、「現実社会」を徹底的に描いていき
     ます。

     具体的にいいますと、「女性」にとっての「不条理」さに対する「問題提起」の作品ということです。
     「明治」である当時、今よりもはるかに、「女性」は「生きにくい」時代でした。

     「女性」の「生きていく方法」は、ただ一つ。 「結婚」だけです。
     結婚して、「妻」として生きていくしか、方法がありませんでした。

     ですから、どんな「理不尽な世の中。夫」であろうとも、「夫」に捨てられたら「女は終わり」同然でした。
     なので、「耐える・・・」ことを強いられた。 「耐えることしかなかった」女性が大変、多い時代でした。

     もし、「夫に捨てられたら」、「女性」にとって生きていく方法は、ただ一つ、「にごりえ」の「お力」と自分も
     なる運命が待っているのでしょう。。。

     「樋口一葉」も、その女性の中の一人でした。
     あわゆく、「身を売らざるを得ない状況になりそうでした・・・」

     「女性」として生きることが、どんなに「辛く。理不尽」であるか、そして、「不条理」な世の中に翻弄させ
     られたか・・・

     だからこそ、「本人」は当然、この世の中の「女性」たちの「代表」として、「声」をあげようとしたのです。
     その手段として、彼女は、「小説」という文学作品を通して「訴えた」のでした。
     すなわち、彼女の「後期・作品」では、「主題」はそこにあったわけです。

     「後期・作品」の「女主人公」たちは、ほとんどみんな「不幸」な人生をたどったり、経験しています。
     また、現代、主に読まれる作品は、「後期・作品」がほとんどです。

     これは、先にも述べたように、「女性蔑視」という「不条理」な当時の時代背景。社会に対する「問題
     提起」が根底にあるからです。


     ・「樋口一葉」で一番、有名な作品は、「たけくらべ」でしょう。

     「たけくらべ」は、児童用に、「一部」のみ短くとりあげて、「美しい純愛物語」のような本もあると思いま
     すが、それは「表面」の「きれいな部分」のみをとりあげた「あらすじ」にすぎません。
     「主題」は、別のところにあるのです。

     「主題」は、やはり、「女性の不幸な人生」とは、「本人」の「自由意思」の「選択肢」が得られ「ない」
     事実上、「女性としての強制労働」が、「運命付けられている」といってもいいくらいの、当時の社会の
     仕組み。 そして、そのために「女性が不幸になってしまう」ことに対する、「問題提起。訴え」があります。

     女主人公である「美登利」は、「それに気が付いた時」には、もう、「どうにもならない環境」に置かれて
     いました。 いままでは、早く「大人」になりたい・・・。と願っていた美登利。 しかし、「ある時期」が来た
     その瞬間、「現実」は、あまりに「悲しい」ものでした。 「女としての不幸の始まりが来たのです」。。。

     そして、「大人」にはなりたくない・・・。と思うのでした。。。
     ある霜の降りた朝、「美登利」の家の格子門の外から差し入れられていた「水仙」の作り花。
     それは、あの「清く美しい幼な日」に楽しくもあり、悲しくもあった日々を過ごしてきた、男友達の「信如」
     からのものでした・・・。 

     しかし、もう、「二人」の人生は、「まったく違う別の道」を行くのでした。
     いえ、その道は、「行きたい」から行くのではありません。
     「生き方を、選ぶ自由がない。自分では決められない世の中」であったわけです。 悲し過ぎます・・・

     特に、「女」という「性」である「美登利」のあまりに悲しすぎる、「これからの不幸な人生」の始まる
     直前で、この小説は終わっています。。。


     ・また、「にごりえ」では、
     「女」として「幸せに」生きていきたい・・・。 だけど、今は「白粉(おしろい」と「紅」をさして、生きていかね
     ばならぬ人生にまで落ちてしまった。。。

     「好きな男」の幼子(おさなご)に、「白鬼・・・」と罵(ののし)られる悲しさ・・・。
     「なぜ」そこまで言われてまでも、「こんな生き方」をしなければならぬのか・・・。
     「お力」は、苦悩するのでした。。。

     このように、「お力」は、人生「諦め半分」でありながらも、「幸せ」をかろうじて「願う」のでした。
     最後の結末は、「好きな男」との最後でした。 しかし、それは、「本当の幸せ」だったのでしょうか・・・

     それとも、やっぱり「不幸」のままで、終わってしまったのでしょうか・・・。 
     本文からは、はっきりした「答え」は、読みとれませんでした。

     このように、「樋口一葉」の作品は、「主題」に対する「答え」が、「はっきり」しないものが多いです。
     先にも述べたように、「樋口一葉」自身が、その「答え」を見つけられなかったからでしょう。

     それぼと、この「当時」の時代とは、社会とは、「女性」にとって生きにくいものだったのです。


    ◆ 「小説」とは、著名な作品であれば、必ず、「主題」が隠されています。
     この「たけくらべ」も、「純愛小説」の「美しいベール」で、覆われている感がありますが、実は、「女性」が
     「不幸」の道を生きていかざるを得ない、この時代の社会の仕組みに対する、不条理さへの「訴え」が
     ありました。 そのように、なんらかの「主題」が、どの作品にも隠されています。

     あの「伊豆の踊子」もそうでした。 「純愛小説」のベールはかけられていますが、「主題」は別のところに
     ありました。

     話しを戻し、「樋口一葉」の「後期・作品」は、このように、「女性を不幸」にするような「時代。社会」に
     対する「問題提起」が、根底にあります。 だからこそ、「心が痛む」のです・・・。

     私も「樋口一葉」の作品は、好きですので、ほとんどの作品には目を通していますが、特に、「にごりえ」
     も、「にごりえ・現代語訳」・樋口一葉。 と、タイトルになっているほどですから、有名な作品ですが、
     この作品も、「女主人公・お力(りき)=力ちゃん」の、「女性」として「生まれた」ことの「不幸な人生」を
     描いています。


    ◆ 「女」として「生まれる・・・」。 それが「不幸」の始まり。。。 それが、この時代だったのでしょうか・・・

     「女」として生まれてきたばっかりに、「不幸」が待っている人生。この世の中・・・
     そういうことが、「後期・作品」のテーマとして、どれも、「メッセージ」が隠されています。

     また、悲しいかな、「一葉・自身」も、その「解決策。答え」を見つけることができませんでした。
     この「女性」に対する「不条理」の世の中を、「どうしたらいいのか」、一葉本人にも「わからない」のです。

     ですから、一葉は、作品には「解決策」なるような道筋は書いていません。 いえ、書けなかったのです。
     それでも、「問題提起」だけは、書き続けたのでしょう。
     そんなわけで、「樋口一葉」の作品は、読み返すたびに、「辛く、悲しい」余韻が強く残ります・・・

     ということで、「樋口一葉」の作品は、「現代語訳」でまずは、読んでください。
     そして、「主題」がなんであるか、「ネット」で検索して調べるもよし、「論文」を検索するなりして分析
     されるとわかります。

     重要なことは、「作品」には、「表」と「裏」があります。
     「表」とは、物語の「あらすじ」のことです。 例えば、「美しいベール」に覆われた「純愛物語」でも、
     「裏」である、内に秘められた、「主題」である「問題提起」があります。

     そこまで「深く」読みませんと、「読んだ」ことになりませんし、そういう「意識」が、「国語力」の向上に
     繋がるのではないでしょうか。

     私は、国語が大の苦手ですが、最低限は、そういう「意識」。「読み方」が必要であることは、わかる
     ようになりましたので、私同様、「国語が苦手」な方の参考になれば・・・と思います。





   ■ E 「不如帰」(徳冨蘆花)     (「心の救済」)

    ◆ 「あらすじ」

     ・まずは、簡単な「あらすじ」です。

     「片岡」中将の娘、「浪子」は、海軍少尉の「川島武男」と幸せな結婚を過ごしていましたが、「武男」
     が戦争のため戦場に行っている間に、「浪子」は「結核(不治の病)」を自覚するようになります。

     それを理由に、「姑」は「家」のためと「浪子」を、「武男」の留守中、強引に「離縁」させてしまいます。
     帰還後、「武男」は激怒しますが、「母」には結局、逆らえませんでした。

     「浪子」は、「姑」などを始め周囲の者たちから、いびられ散々な目に合い、「結核」も悪化します。

     「浪子」は臨終の間際、いままで「姑」などに虐げられていましたが、最後に、新婚のとき武男から贈ら
     れた「指輪」をはめ、「これは、持っていきます・・・」といって亡くなっていきます。

     無理やり「離縁」させられ、「愛する武男」に会えず、「無念」の中に死んでいった「浪子」ですが、
     後日、「浪子」の墓参りの際、「浪子」の父である「片岡」中将と、「武男」は出会います。

     そのとき、「片岡」中将は、「武男」に対し、
     「武男さん。 浪(浪子)は死んでも、私はやっぱり、あんたの爺(おやじ)じゃ」と、声をかけるのでした。。。


    ◆ 「不如帰」について

     ・この小説のテーマ。ポイントとしては、「家族制度」や「因習」による、「嫁(女性)」への差別があります。
     時代は、明治ですが、まだ、江戸時代の習慣は残っています。

     「嫁」は、「夫」の「妻」ですが、「姑」の嫁でもあります。 古い習慣では、やはり「姑」に従う必要があり
     反攻など事実上できません。

     また、「夫婦愛」よりも、「お家大事」。 「家」の役に立たない、伝染病でもあり、わざわいを招く嫁は、
     「夫婦愛」など「無情」にも軽んじられ、「離縁」され捨てられる。 別の「健康な嫁」を迎えればよい
     わけです。

     「武男」は、「人情。義理」もあって、「浪子」と離縁させられたことには激怒しましたが、この時代は、
     まだ、「家」優先で通用しないわけです。


     ・次に、この小説は、「野菊の墓」や「絶唱」に似ています。

     「野菊の墓」や「絶唱」でも、「愛する二人」を、因習が襲い、二人を引き裂き、「女性(妻)」は死んで
     しまいます。 また、

     「野菊の墓」では「民子」が、「政夫」の写真を胸に亡くなりました。
     「絶唱」の「小雪」も、「夫」を想う、「木挽唄」を口づさんで亡くなります。


     ・最後に、「カタルシス」について。

     「不如帰」の「浪子」は「無念」の中、死んでいきました。 このままでは、「悲惨」すぎて悲しすぎます。
     やはり、なんらかの形で、「救い」がなければやりきれません。

     「野菊の墓」でも、「無念」の死をした「民子」であり、「政夫」にしてみれば、死に追い込んだ周囲への
     やり切れないほどの怨恨(えんこん)がありました。

     しかし、ラストシーンである「墓前」で泣き崩れる政夫の周りには、あの民子のような可憐な「野菊の花」
     が咲いていた場面で終わります。

     また、「絶唱」では、やはり、因習のため駆け落ち同然で、やっとのこと夫婦になった二人ですが、すぐに
     出兵させられ、それでも、「数年間」待ちに待った、「夫」の戦地から帰還する直前に、「小雪」が亡く
     なります。 まさに、「無念の死」です。

     しかし、最後は、二人を引き裂こうとしてきた「確執のあった父」も死んだため、「御曹司」である実家に
     戻り、結婚式をあげていなかったため、また、事実上、「身分」の低い「小雪」であっても、「正式」な
     「嫁」であることを、民衆に知らしめるためにも、盛大な「結婚式(葬婚式)」をしました。

     ただし、「小雪」は死んでしまいましたので、「葬式」と「結婚式」を同時にとりおこなう、前代未聞の
     また、狂気じみたといってもいいような、「葬婚式」を盛大にあげました。

     「野菊の墓」も「絶唱」でも、「ラストシーン」では、「カタルシス」。 すなわち、「心の救済」を感じさせて
     終わることがせめてもの慰めです。

     「不如帰」ではどうでしょうか。 やはり、ラストシーンで、「片岡」中将が、「武男」に対し、
     「武男さん。 浪(浪子)は死んでも、私はやっぱりあんたの爺(おやじ)じゃ」と、声をかける場面に、
     「心の救済」を感じさせて終わっています。

     「浪子」の父、「片岡」中将と、「浪子」の元夫の少尉「川島武男」は、似たもの同士。 性格も同じ
     だったようです。 

     二人は、「家族制度」よりも、「夫婦愛」という「新しい時代」に理解がある人だったのでしょう。 だから、
     本来ならば、二人は「世間体」的にも、会いづらかったでしょうし、こんなことになってしまったけれど
     「新しい時代」の考えを持つ二人であったがゆえ、心は通じあいました。

     その最後の、「片岡」中将の言葉が胸に沁み、「浪子」の「心も救われた」ように思います。





   ■ F 「其面影」(二葉亭四迷)    (「理想」と「現実」)

    ◆ 「二葉亭四迷」といえば、「浮雲」ですが、「其面影」も合わせて紹介いたします。

     ・まず、「浮雲」の「あらすじ」です。

     主人公である「内海文三」は、官職に付く役人ですが、「リストラ」にあい「失業」します。

     ちなみに「内海」は、「叔父さん(留守で不在)」の家で、「叔母さん(後妻)」と、「許婚(いいなずけ)」
     同然の従妹「お勢」と、書生の頃から間借りして、「下宿」しています。

     「内海」は、同僚の「本田昇」が、「復職」の話しを持ってきますが、断わります。
     「本田昇」は、「世渡り上手」なのに対し、「内海」は「ゴマを擦る」の大嫌いです。

     結局、「内海」は、「リストラ」に合う、上司に頭を下げてまでして「復職」はしたくない。 それとは対照に、
     「本田」はトントン拍子に出世するため、「内海」は「叔母さん」に、掌を反すように、邪険にされいびられ
     ます。

     さらに、「お勢」も「本田」と仲良くなっていきます。
     なので、「内海」は「恋」にも苦悩する・・・というお話しです。


    ◆ 「浮雲」について

     ・この小説は、「理想主義」で才能はあるが、「世渡り下手」と、反対に「現実主義」の「世渡り上手」
     との対照的な二人の世の中での「取り扱われ方。待遇」に対する「矛盾・不条理」がポイントでしょう。

     「内海」は、嫌な上司にゴマを擦ったり、そんな上司に頭を下げてまで役人として仕えたくないわけです。
     なぜなら、秀才であり、能力もあり、「仕事」自体はできるからです。

     どこの職場。時代でも同じなんでしょう。 「こんな上司」に媚びへつらい、奴隷のように従いながらも、
     同じ職場で仕事をし続けなければならない。耐えねばならぬ気持ちはよくわかります・・・。

     しかし、「現実」ではそうせざるを得ません。 「相手」に気に入られなければ、人間関係もうまくいかな
     くなり、まして、相手が、職場の「上司」や「社内」となれば、結局は、「不利益」をこうむる立場に追い
     込まれる場合も少なくありません。 リストラの対象者は、まず、そんな人間から目を付けられますからね。

     「世の中」、悲しいかな、「本当のこと」をいったら終わりです。。。 「本音」と「建前」の国、「日本!!」とは、
     最近のコマーシャルでもいってますが、まさに、古来からの「日本の文化」。「風習」。「習慣」です。

     私も、「本音」と「建前」を「使い分け」できない「不器用」なタイプなので、「主人公」には共感させられ
     てしまいます。 ということで、今も昔も「世渡り下手」の人間のお話しです。

     結局、「理想主義」で、思想は間違っていないはず・・・なのに、なぜか「上手くいかない人生」の矛盾
     不条理を問題提起しているともいえます。

     「相手」によって、「顔色」を、「180度、変える」人間っていますよね。
     「上司」だと、「円満の笑み」を振り撒いたかと思えば、自分より「下の者」だと判断すれば、一気に転じて、
     「無表情」になって、「ぶっつら顔」で、相手を「見下す」ような態度をとる人間って・・・。

     傍から見ていても、嫌な気分になるものですが、不思議にも、そういう人間がのさばっていくケースもある
     からやりきれません。 「正直者」は、「バカ」をみる・・・。とは、よくいったものです。


    ◆ 「其面影」の「あらすじ」

     ・次は、「其面影」の「あらすじ」です。

     主人公の「小野哲也」は、学生時代は秀才でした。 ただ、実家からの「学費難儀」のため、結局、
     「小野家」の養子となり、そんな「義理」もあり、卒業後は「小野家」の長女「時子」と結婚しました。

     「義父」は亡くなってしまったので、「義母」と「時子」は、家長として「小野家」を経済的にも支えてほしい
     わけですから、ここまでは、まあいいわけです。

     ところが、「哲也」は、学問の道を選択し「教師」となったので、給料が「安く」、職場を掛け持ちするくら
     いでした。

     「義母」や「時子」は、裕福育ちのため、付き合いなり、身なりにも、当然、「貧乏」だと周囲から思われ
     たくない「見栄」もありますから、「生活費」もそれなりにかかります。
     なので、「安月給」の「哲也」を困らせます。

     そんな折り、「小野家」の腹違いの「妹」の「小夜子」が、夫の病死のため、「小野家」に戻ってきます。
     「小夜子」は、「時子」や「義母」とは、正反対のような性格の「女性」です。

     例えば、「哲也」が仕事で帰宅すると、「小夜子」は、優しく「お出向かい」したり、「お茶」を入れたり
     細々と気遣いをします。 ちなみに、「妻・時子」は、そんなことはしません・・・。 笑

     「入り婿」の「哲也」は、「義母」や「時子」には、わがままをいわれるばかりで、「安月給」のためまとも
     扱いされません。 要するに、「生活費」は要求されるけれど、「夫」扱いされない。 大事にされない
     わけです。

     また、「小夜子」も、死別とはいえ出戻りで、家に置いてもらっているだけでも肩身が狭いですし、それに
     次第に、「小夜子」と「哲也」が、なんとなく仲がよくなってくるので、「時子」は面白くありませんから、
     「小夜子」を邪見にしたりするようになります。

     そんなわけで、「小夜子」と「哲也」は、結局、お互いに同情しあうようになり、また、心引かれる関係
     にもなっていきます。 そうなれば、当然、「時子」は黙っていません。 この家はそもそも、「自分」の家
     ですから「強気」です。

     「小夜子」は追い出されてしまいますが、恋仲となった「哲也」は、「小夜子」を「別宅」に住まわせます。
     しかし、「小夜子」は、「罪の意識」もあり、また、「煮え切らない哲也」であったということもあり、とうとう、
     「小夜子」は、その「別宅」も出ていってしまいます。

     「哲也」は「小夜子」を探しますが見つからず、絶望の果てに落胆し、破れかぶれとなり、酒に溺れ
     流浪し、「人生を転落」していくのでした。


    ◆ 「其面影」について

     ・「其面影」も、「浮雲」の主人公と同じような「理想主義者」ではあるけれど、「世渡り下手」というか、
     「現実」の世界には、対応しにくいタイプです。 また、「意志」が弱いというか、「決断」できないタイプ
     です。

     「小野家」は、「学費援助」の「恩」があるので、その家の「養子」となり、また、「婿」となったわけですが
     運悪く? 「義母」も「妻(時子)」も、いままでの「い生活レベル」は維持しようとするし、「性格」も違い
     あまり「愛情」も、気遣いもしてくれません。

     こんな「夫婦生活」は「嫌」だけど、「義理(恩)」もあるし、「婿」の立場なので強くも出れず、また、
     「小夜子」に対しても、「恋仲」になり別宅に住まわせ、半「同棲」のような関係にまでなったにもかかわ
     らず、「時子」とは「離婚」の「決断」ができません。

     「小夜子」としては、「不倫」状態で、「哲也」が「中途半端」な気持ちのままでいつまでも続くようである
     ならば、さらに「罪の意識(不倫)」も合間って耐えられません。

     だから、もし、「哲也」が「時子」に見切りをつけて、正式に「離婚」して、「小夜子」と「結婚」する「決断」
     さえしれば、また、「哲也」にも「新たな人生」が開けたかもしれしれません。 

     しかし、いざ「時子」に「離婚話し」を持ちかければ、普段の強気とは反対に、取り乱す姿をみれば、
     「自分(哲也)」のいなくなった後の、捨てられた哀れな「時子」や「義母」の姿を想像すると、やさしい
     性格の「哲也」としては、なかなかきっぱり「離婚」する「決断」ができません。

     確かに、「現実」とはなかなか難しいものです。
     人間には、大なり小なり欠点もあるし、わがままなところもある。

     「理想」的には、「時子」も「義母」も、「哲也」のレベルや性格に合わせてくれれば済むのだけれど、
     相手は相手で、「自分の基準」があって、かなかな譲れない・・・。

     「妥協点」も、双方の「中間点」という場合もあろうが、「月給」の限度もあるから、「中間点」というより
     完全に、「哲也」のレベルに、「時子」も「義母」も落としてくれればいいのだけれど、人には人のプライド
     や見栄もあり、いままでの経緯から無理なわけです。

     「性格」も、「三つ子の魂百まで」で、「一時的」には、強気も折れることもあろうけれど、また、時間が
     経つと、「のど元過ぎれば」の如く、元の状態に戻ることも多いでしょう。

     だから、「世の中」。 「白黒」はっきりつけられるものばかりではなく、ほとんどが、「妥協」や「あいまい」な
     関係で進んでいかざるを得ない場合も多い。

     結局、「現実」社会では、いろいろな「しがらみ」。「束縛」のかかる人生の中。 「理想」的な「決断」を
     することも、ままならなく「ジレンマ」に苦悩するという、「問題提起」の社会小説としては、「浮雲」と似た
     主題を持っています。

     ただ、「其面影」は、「家庭小説」。「恋愛小説」としての演出があるし、全体的に「人情」話しのような
     面も多く、また、「小夜子」の存在が「ほのぼの」として癒されるので、そういう部分があるため、どちらかと
     いうと、こちらの小説のほうが気に入ってます。


    ◆ ちなみに、「浮雲」。「其面影」の主題である、「理想」と「現実」のギャップ。ジレンマ。不条理などの
     問題提起。社会小説としては、夏目漱石の「坊っちゃん」が有名ですね。 私も好きな小説ですが、
     詳細内容は割愛いたします。





   ■ K 「こころ」(夏目漱石) 

     ◆ 「こころ(夏目漱石)」。について、書いてみたいと思います。
       まず、「あらすじ」から簡単に整理してみたいと思います。


     ・「国語」の教科書で、一部、掲載されていますが、とりあえず、「全文」を通してのあらすじです。

     作品の「全文」は、「3部」からなる長編小説です。

        上。 「先生」と「私」
        中。 「両親」と「私」
        下。 「先生」と「遺書」


        @。上 : 「先生」と「私」

     ・私は、地方から東京に出てきた大学生です。 夏休みに鎌倉の海岸に遊びにいったところ、たまたま
     気になる人物が目に留まりました。 その人が、いわゆる「先生」です。

     「先生」といっても、学校の先生ではなく、「人生の先生」といった意味での「先生」です。
     その「先生」なる人物が、私には無性に興味を引くため、次第に交流を深め、家に出入りするくらい
     の関係になりました。

     「先生」は「美しい奥さん」と暮らしていました。 しかし、先生には心を閉ざしたような、また、謎めいた
     暗さがありました。


        A。中 : 「両親」と「私」

     ・父の急病で、大学を卒業した私は、帰省します。 そして、その帰省中に、「先生」から手紙が届き
     ました。 その内容が、「遺書」であることを知り、急いで「東京」に戻ります。


        B。下 : 「先生」と「遺書」

     ・「遺書」の内容です。 そこには、「先生」の過去が書かれていました。


     ◆ 下 : 「先生」と「遺書」について、詳細。

     ・「先生」と「遺書」について、この部が話題の中心ですので、もう少し、書き加えてみたいと思います。
     「先生」が、まだ、青年の頃、地方に住んでいました。 親を亡くした先生は、遺産相続の件を、叔父に
     任せたのですが、だまされて、人間不信になってしまいました。

     先生は、全ての遺産を処分して、「東京」の大学に進学し、下宿生活を始めました。
     その「下宿」は、「母・娘」二人の一軒家で、「先生」は、そこの「2間」の間借りをしていました。

     また、「母・娘」二人は、心温かい人達で、先生は同居しているうちに、「お嬢さん(娘)」を想うようになり
     ました。

     そんな折り、同郷の親しい「友人(K)」も、学生として東京に出てきていたのですが、家族とのごたごたで、
     結局、仕送りもされなくなり、生活や住むところに貧し、困っていました。

     先生は、Kを見かねて、自分の借り間の一部屋をあてがってやり、Kとも同居することになりました。
     ある日、Kと散歩に出かけたとき、Kは悩んでいる様子でした。 Kは、学問の道を究めようとしていまし
     たが、その精進を阻む「恋」とのジレンマに悩まされていました。

     Kから、その話しを打ち明けられた先生は、幼い頃から「K」が頭もよく成績も上で、自分は蔑(さげす)
     んで見られていた感があり、悔しい思いもありましたから、ここぞとばかり、「罵倒」同然の喝を浴びせま
     した。

     同時に、「K」が「恋」に悩んでいた相手が、想像もしていなかった、先生も好きであった「お嬢さん」
     であり、また、「K」と「お嬢さん」の様子が近頃、あやしい関係だと感じてきたため、先生は「お嬢さん」を
     取られまいとして、「K」を出し抜いて、密かに、「お嬢さんの奥さん(母親)」に、婚約を申し出てOKがでま
     した。

     そのことを知った「K」は、後日、「自殺」をしてしまいました。
     先生は、それを目にしたとき、初めて、とんでもないことをしたことに気が付きました。

     「友人K」が苦悩を、私(先生)に打ち明け、相談してくれたにもかかわらず、「恋敵」と「自分のエゴ」を
     優先して、「友人」を出し抜いてまでも、「策略」で、人間としては「非道」な方法として、「K」に勝った。
     「お嬢さん」を手にいれたことへの「罪悪感」。 良心の呵責に苛(さいな)まれるようになりました。

     先生は、かつて、「叔父」に遺産を、全額だまし取られそうになりました。
     「信用」していた人である、「叔父」にだまされ「裏切られた」経験があり、強い「人間不信」を受けたこと
     がありました。

     にもかかわらず、今度は「自分」が、「K」に対して、同じ「非道」をしてしまったわけです。
     だからこそ、「先生」は悩み苦しむことになりました。

     なので、せっかく「K」よりも先に、「先手」を打って「お嬢さん」と結ばれた結婚生活であっても、とても
     「幸せ」な気分ではいられませんでした。

     「生きているのか、死んでいるのか」分からないほどでした。
     しかし、「先生自身」も、そのことは「相談」する相手がいませんでした。
     本当なら、苦しみは「妻」に打ち明け、「夫婦」で分かち合うためのものでもあります。

     ですが、この「苦悩」ばかりは、「妻(かつてのお嬢さん)」に、相談できるはずはありません。
     先生は、一人で悩みます。 「孤独」です。

     苦しみを、「誰にも相談できない」。 自分だけで「孤独」を苦しみぬくしかなかったのです。
     人を「信じられない」・・・という「非道」を味わった先生です。 
     だからこそ、先生は、「信じることのできる人」に、「出会いたかった」のです。
     それまでは、先生は「死ぬこと」すらできなかったのでしょう。

     しかし、先生はついに見つけました。 この「私(語り手・先生と出会った私)」でした。
     先生は、私を「信じられる人」だと、交流の中で悟ったのです。
     ついに、「信じられる人」に出会えた・・・。
     そして、先生は「死のう」と「決心」したのでした・・・。  完




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